「カンカンさん」が運んだ

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カンカン担いでの毎日はしんどくても、生活に手ごたえがあったと語る須賀満子 さん(由良)
 紀淡海峡を臨む由良(洲本市)。水揚げ量、種類、質で定評のあった港町である。海岸沿いの由良大橋の開通は、かつての町の面影を一新した。しかし、変わらぬ港の風景は、男たちのたまり場での語らいだ。潮風を受けて、出港する仲間を見送りながら、思いめぐらすのは波しぶきかぶる漁。何年も繰り返してきた見送り、語らいであっても、日没前の光と陰の転換時の一瞬に近い海の輝きは男たちを寡黙にする。

 その男たちの印象が強いためか、港町の女たちの明るさとたくましさは際だっている。 「夜の漁、港でのつくろいと、休む間も限られている漁師にとって、魚を知っていながら、売ることはできん。この仕事を女たちが引き受けた」

 俗に「カンカンさん」と呼ばれる集団が毎朝、大阪、京へ向かった。大半は女性である。現役のカンカンさんを訪ねる前、由良の町の魚屋をのぞいて気づくのは、値札のないこと。「客は顔見知り、値札はいらん。このハモはあがりめ(絞める前に死んだ魚)。ハモは一キロあっちこっち(前後の意味らしい)がおいしい。食べると、夏、目に汗がはいらんから、精がつくというて」と、店のおばちゃん。土地々には、いろんな言い回しがあるものだ。

 港町特有の細い路地を通って、須賀満子さん宅に着いた。六十七歳。大阪まで毎朝、魚を運んでいる。淡路で京まで通うカンカンさんは、明石対岸の岩屋ぐらい。それも、明石でハモを仕込み、水槽で運んでいる。由良では、誰もいなくなった。

 重い荷を、女たちが毎朝京まで

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ゲタばき姿も懐かしい由良のカンカンさん(昭和三十年代)
 「京までいったことはあるが、しんどうて。ハモ、車エビが良く売れる。その縁で夏に、お屋敷の家族が泊まりがけできてもらったこともある。この仕事は、二十歳のころから続けている。そのころは、朝、三時前に魚を仕込み、六時の船で渡って、南海で大阪へ行った。電車は貸し切りやった。階段がつらかった。からの缶だけでも、ブリキやから重い。これを三缶、中身入れたら四十キロに近い」

 須賀さんが裏から持ち出したカンカンを担いでみる。肩に食い込む重さだ。この中に七段重ねで魚を入れた。すべて浜絞めである。 須賀さんには子供が四人いる。つわりの時は、電車の床に横になった。得意先から予定日を聞かれて、明日と答え、そのとおり、子供が生まれた。

 「ここらでいう団子汁をつくるお金もなかった。お父さん(夫)は漁、私が売りに行く。帰りは、一時過ぎに大阪を発(た)ち、三時に由良へ戻ってきた。家へ帰った思いよりも、気になっていたのは子供。娘の一人が体も弱く、今はこの娘のために、続けている」

 長男が車で同行するようになって、楽になった。淡路の魚をどんどん、大阪に届けられる時になって、魚が減った。ブリキ缶のころなら、もう一缶増やしてみようか、と担いでやめたこともあった。

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細い路地と船の港町風景(福良)
 「船の足が沈んでると、みながいうほど、昔はとれた。今は種類も減り、ええのがとれん。それでも、ここの魚は日本一やと思っている。生活のためにはじめたけれども、届けると、みながええ魚や、といってくれる。これがうれしくて。仕事してなんか自分が大きくなった、育ててもらった気持ち」

 カンカンに変わって、発泡スチロールが入れ物になった。軽い。運び安い。良かったですね、といったら、そやないね、兄ちゃん。といわれてびっくりした。驚いたのは、兄ちゃんと呼ばれたからではない。 「カンカンなら、重くても、毎日、持って帰った。今は手ぶらの帰りになるが、スチロールのゴミを町へ置いてくる」

 ごく一部にしても、巡りめぐり、川へ捨てられ、海へ戻ってくる。楽することは、素直に喜べない。これまでの毎日の経験が、教えている。あの難波の階段をあえぎながらのぼり、魚を届けたあと、さあ、子供にあえる、と思った帰り道、カンカンが重く感じた記憶はない。子供の世話と大阪の得意先回りは二つの歯車だった。貧乏でも、がちっと歯車のかんだ生活は、振り返れば涙もでるが、喜びも大きかった。

(1999.7.21 文=粟津征二郎 写真=白石京大) 

■複雑・多様化した流通

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 ハモの流通は、かつて、淡路産が明石に集められ、京都もの、大阪と仕分けして出荷された。明石の魚棚通。アーケードができるまでは魚市場の雰囲気があり、かご抜けしたタコが歩いていた。魚専門店街に装いを変えた現在、かご抜けこそしないが、タコ=写真=が相変わりませず、足をくねらせている。ここでも、淡路のハモは手に入りにくい。

 卸・小売り「かねき」の社長は「担ぎ屋さんがうちでそろえたハモを錦に運んでいるが、昔のようにまかせておけ、いえんから、京はいろんな店から仕込んでいるはず。外国産が半分、残りは四国、九州までかき集めないと、需要にこたえられん。流通は変わった。この間も下津井であがったそうや。情報が勝負になった。昔のように明石からという時代でなくなったのが、さびしいな」

 ハモの水揚げは瀬戸内から鹿児島、宮崎など九州まで広がっている。明治まで沼島のハモ組が遠征して水揚げしていたことを考えれば、ハモそのものは、昔も今も一緒で、流通の変化、水揚げ港が多様化したにすぎない見方が成り立つ。しかし、淡路ブランドの効果は大きく、京都向けに、鳴門で水揚げのハモをいったん、淡路に運び、出荷したこともあった。もっとも、鳴門もハモの漁場は一緒だから、水揚げ港の違いだけ。産地ブランドにとどまらず、延縄(はえなわ)による漁師ブランドであった淡路のハモ漁の歴史が流通を複雑にしている。

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