リズミカルに骨切り
堺萬の五代目、澤野輝彦さんによると、初代萬助は上賀茂神社に出入りしていた堺屋で修行、名前の萬と堺の字をとり、店の名前にした。堺屋という名前も、鎌倉時代から瀬戸内航路の要港だった堺を連想して因縁めく。 瀬戸内海沿岸は大きな魚市場がいくつもあった。代表的なのが大阪のざこ場。淡路周辺の魚は、水揚げされると、船に活け間(海水の入る隙間)をつくり、魚を生きたまま持ち込んだ。釣り船から出買いと呼ばれる海上での仕入れをし、塩をしない、いわゆる無塩(ぶえん)で運んだ。 若狭がひとしおもので京になじんでいくのに比べて、大阪湾に水揚げの淡路の魚は、鮮度を強調しても、ひとしおものという表現はあまり聞かない。瀬戸内特有の流通と関係があるのかもしれない。 この船上流通の担い手の中に沿岸の堺周辺も含まれた。船をゆすってまで活け間の海水を入れ代えるほど鮮度重視の潮風は、店ののれんにぴったりあったのだろう。 萬助は、当初から鮮魚、なかでもハモ料理を特技にしていた。堺萬のハモ料理は、代々、受け継がれてきた。 鮮度生かし細心の調理
水洗いから始まり、たんねんにぬめりをとる。次に浜絞めのハモの背びれをとり、外回りをきれいにしてから開く。大阪風の、開いてから背びれをとるやり方と違いがある。 三枚におろして、背骨をとる。澤野さんが数えたハモの背骨は百五十八、この背骨からそれぞれ小骨が出ており、この数が計三百十六本。腹骨も入れると、この倍近い。 骨切り。この技術がハモ料理を決めるといってよい。「なにに、気をつけるか、といえば、お客さんが骨にふれんこと」 延縄(はえなわ)漁でも、潮の流れと入れるタイミング、リズムが延縄の水揚げに影響する。漁師たちは、声にはださないが、リズムにのっている。調理場のハモを前にした料理人にもあてはまる。 包丁を入れる前の構えは、たるんだ糸をピーンと張るような一瞬の静寂、のちにこぎみよく包丁が音をかなでる。 通常、シャッシャッと包丁を入れて、おとし用は骨を切る数が一、二、三、四、五で、切り落とす。堺萬は七。皮を残して細かく骨を切ることになる。上辺だけにすれば、骨がつく。
珍味を口にした。ハモの薄づくりだ。あのおとしのふっくらした味わいでなく、フグに近い。鮮やかな変身に目も舌もまるめるしかなかった。 夏祭りは、京から大阪へ移った。 日本橋の黒門市場。ハモが並んでいる。淡路屋、明石屋の名前の店が目にとまる。「淡路から出てきて店をやっている。けど魚は淡路もんよりも和歌山の方が多い」と、おばちゃん。大阪でも淡路は遠くなった。 「ハモは韓国産が現代の産地ブランド。産地がごちゃまぜになったいまは、目利きに頼るしかあらへん。頭が小さくて、体がまるこい、目も小さい、色は薄い方がええ」 京と大阪の違いは、切り身の大きさ。京のように上品では客が怒る。味が良ければ、産地は関係ない。受け答えも大阪風だ。
沼島や和泉の若者がざこ場に新鮮な魚を届けるため先を競って船を漕ぎ、後日、血へどをはいた話など、入り込むすきもなかった。 夏の夕陽(ひ)がまぶしく、大阪湾を眺めていても、感じなかった淡路のハモへの思いが、京阪電車で戻った四条大橋を渡る時、鴨川の流れで呼び起こされた。水の旅の行きつく先にあの島がある。離れて知るつの字のハモ。郷愁が失いつつあるものの大きさを大きくする。
(完)
(1999.7.26 文=粟津征二郎 写真=白石京大)
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