産地競争にもまれ 徹夜運搬

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サバの道、熊川から近江への峠、水坂峠を行く馬車(大正時代、熊川・逸見啓市氏提供)

 大原から朽木までの若狭街道沿いの川は、九月の雨で山から集まった水が騒いでいる。

 若狭街道が数ある若狭から京への道の中で、魚を運ぶ主要な道としてにぎわったのは鉄道開通までである。それ以降、ぷつんとなくなるわけでなく、昭和の初めころまで七人衆と呼ばれたリレー式の運搬が残っていた。

 七人衆 昭和初めまでリレー

 車で二時間もあれば小浜から京へたどり着ける便利な現代は、通る魚に比べて昔の道をたずねる人の方がはるかに多い。サバ街道の名称も、最近になってからだ。

 若狭ひとしおがこれほどまで京都の食彩になった理由は、京は遠ても十八里の言葉の裏に込められた魚を都に届けたい、若狭の心と流した汗を見逃せない。都への供給地として若狭しかなかったという立地もあるが、それだけでは、毎日、遠い道を運ぶ説得力に欠ける。

 江戸時代の文献が小浜に残っている。京都の食彩が花開く江戸中期から後期は、ハモ、タイなど瀬戸内の魚が都に運ばれ、淡路・沼島漁業の全盛期になった記録と、ほぼ期を同じにする。小浜の市場仲買文書といわれ、若狭歴史民俗資料館の永江秀雄さんによれば「吾仲間・永代・記録簿」が表紙の裏の名前になる。文化十年(1813)の記述のあとにこんな内容の文を記している。

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妻入りと平入りの屋根が混在する大正期の熊川。かごを担う人も映る。(逸見啓市氏提供)
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現代の熊川の風景。家並みは、昔のまま残る
 「京へ魚を担い、駅継いでいくが、とかく遅くなる。大阪もの、生、炙(あぶり)、煮薄塩などにて夜を通して早船でのぼり、伊勢阿野津のもの、自ずから担い出て、雲助にも持って走らせ、その夜、矢橋に着き船で大津へ出荷する。大阪、伊勢ものが京、大津で張り合い、片時も早く届ける必要あり、近頃は夜通しで運ぶようになった。夜間の駄賃二割り増し」(注・原文を要約)

 現代と相通じる流通戦争が都を舞台に展開されていた。夜を徹して運ぶのが勝者への道。若狭街道で、淀川で魚を運ぶ掛け声が聞こえてくるような記録だ。

 若狭ひとしおは、時間を縮め、京へ着く。京都が好んだ頃合いの塩サバは、産地競争にもまれてできた味でもあった。若狭ひとしおが瀬戸内を抑え、京で定着したという見方もできる。

 朽木までの現代の街道に「サバ寿司」の看板が増えている。朽木村の日曜の朝は、遠方からのマイカーでにぎわう。朝市名物のサバ寿司が目玉になっている。朽木から保坂を経て行く九里半越えに、福井県上中町熊川がある。熊川は小浜から四里半、歩いて五時間強のかつての宿場町。日本海の海産物が集まり、京都、大阪までの中継地だった。

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最短コースの県境、上根来で道を聞いた山仕事の主婦は「峠はまだまだ先」と
 熊川きって旧家蔵見屋の萩野たか子さんと、以前、立ち話していて京言葉なのに気づき、京都から嫁入りしてきたことを知った。頼山陽が吉野葛よりも上質と評価した熊川葛は、いまも京都へと納めている。亡くなった荻野さんが、ここでは負い縄一本あれば生活できた、と語った物流の要所は京まで十五里、六十キロの道のりになる。

 この熊川にも大きなサバ寿司の看板があがっている。サバ寿司の家庭の味に関して面白い話を聞く。大学、新聞社とも司馬遼太郎の後輩の宮下市郎さん、七十三歳。大阪からふるさとに戻ってきた。

 「サバ寿司は福井よりも、近江側、それも京へ行くほど味がいい。このあたりは、山に近くても、浜の新鮮な魚が手に入り、ありふれたつくりが多い。ところが、朽木から向こうは、違う。工夫している」

 浜から遠ざかるにつれてサバは貴重品になり、塩がなじんだからなのか。宮下説をもとに、朽木から尋ねていく。さすがに自慢話はなかったが、大津市の葛川まで来ると、サバ寿司は、保存食よりも、お使いものになっていた。届け先は京都、大津が多かった。

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朽木村の朝市の人気は、サバ寿司の競作。一本二千五百円がよく売れる
 葛川より、京の方が塩もなじんでいる。いや、京と葛川の時間差分だけ、鮮度がいいなどと、互いの味の評が飛び交ったかも知れない。女たちの腕をまくる姿が浮かんでくる。

 サバ街道で町起こし中の熊川でも「昔は、春のお祭り以外には、食べなかったサバ寿司を、最近はお客さんがくると、食べたいといわれてつくるようになった。おばあちゃんの時代にはなかった熊川の味」と、主婦たちは、サバ寿司づくりに精を出している。近江と福井、どちらがおいしいか、聞かれて困るサバ街道のサバ寿司事情。ほおばったらうーんと、目で笑うしかない。

(1999.10 文=粟津征二郎 写真=山本武人) 

 ■23もあるサバの道
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 若狭から魚を運ぶ道をいつからサバ街道と呼ぶようになったのか。小浜から街道沿いの文献には、サバの道はあってもサバ街道の表現は見当たらない。小浜側では「最近の話、小説でだれかが使って広まった」のが通説になっている。「鯖の道朽木」の冊子編集の石田敏・高島中学校長によれば、昭和五十四(一九七九)年、ある小説家が用いたのが発端で「私も読んだ記憶はあるが、作者は思い出せない。いろんな人に聞いても、名前のところで止まってしまう」と、首をひねる。名乗りをあげる人もない。

 サバの道はどのくらいあるのか。これには諸説あり、現在の若狭街道は主要道のひとつ。近江へ六、丹波九、丹後へ八の計二十三の道が若狭から魚を運んだ道という調査もある。サバの道には、若狭から綾部の紡績工場へ働きに行く若狭の娘たちが通った峠も存在、サバの道は篠山まで伸びている。

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