行商の足跡も遠い記憶に

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サバ大漁のころ、若狭の港は運んでも、後から水揚げのサバが追いかけてきた(小浜・伊藤一樹氏提供)

 若狭で「きょうといことやなあ」の会話を聞く。「京都は遠い」が縮められて「きょうとい」になった。しかし、意味は遠いでなく、怖い意味で使う。サバの運搬は、道中に危険が待っていた。追い剥(は)ぎから野犬、さらに京都へ着くと、魚を買いたたかれる。あれこれ推測すると、「京都怖い」では刺激が強すぎて、角が立つ。そこはやんわり、遠いの中に怖さを隠した若狭風の表現なのかも知れない。

 「魚を例にすると、京都まで持っていっても、売れなければ捨てるしかない。サバなんか腐ってしまう。買いたたかれても置いてこないとしょうがなかった」から、労の割には実入りの少ない京への道だった。京都への魚の行商で一代を築いた若狭人はまずいない、といわれている。

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サバ街道は親父の道。行商の父が残した食堂で語る大谷さん夫婦
 鮮魚の店の並ぶ小浜・泉町は、サバ街道起点の横断幕がかかる。焼きサバの匂(におい)がたちこめる。

 ここの一角に食堂が店を構えている。大谷食堂。小浜を訪ねたら必ず立ち寄るなじみの旅行客も多い。

 主人の大谷長二さん、六十九歳。大谷さんの父親は小浜から朽木へ魚を運んだ泉町の朽木屋で魚の担ぎを覚え、十三の時に独立して自分で売りに出た。若狭街道を通らず、名田庄村から堀越峠を越えていく丹波ルートの得意先を開拓した。

 「大八車、てんびん棒で魚を運び、母も大八を押して手伝った。お腹(なか)の大きい時でも、赤ん坊を背負って。お腹の子も背中の子も帯で締められてきつかったのか、私の兄たち五人ともみんな生まれて死ぬか、育たなかった。その両親が、やっと生まれ育った私に残してくれたのがこの店ですわ」

 小浜の町からサバの道には京都と若狭のつながりが残っている。それも、名所旧跡でない、目をしばたたかせ、鼻をすすりあげて語る食堂の主人の思い出の中に、しまい込まれている。 大谷さんにとってサバ街道は父、母、背負われた兄たちの道である。

 水揚げ減少と同時進行

 京都市広河原。サバの道の直線コースにあたる名田庄から田歌、佐々里峠越えで若狭から行商人がやってきた。「京よりもここの方が新しい魚が食べられると、よく言うたもんや。留守でも軒先に吊していった。半期払いの掛け」と、年寄りたちは口にする。かつて土地の人がシッチョモン(七衛門)と呼んだオッチャンはいつも子供におやつを買ってきた。

 「峠を降りた最初の家のやんちゃ坊主が道で待っていて、ミヤゲ置いていかんと通さんと、手を広げていた」というほど、若狭からの行商が待ち遠しかった。もう二十年以上も前、仲井ツマさんが話してくれた若狭と広河原のつながりは、京都よりも強かった。

 「若狭の魚はうまかった。嫁入りの家では若狭の魚でそりゃ豪華なお膳を出した。家の普請の大工も、屋根葺(ふき)も若狭からやってきた」

 大谷さんの父親も通ったであろう山道沿いの人たちの心に若狭が足跡を印(しるし)ている。しかし、昭和三十年前後をピークに若狭の魚の水揚げは次第に落ち込みはじめ、広河原の過疎化と同時進行の形をとる。魚もこない、持っていっても家が少ない。山の中の軒下に吊された魚の姿も、潮風の香りも止まった。

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北前船の荷揚げとサバのにぎわいは語り部の世界となった小浜港

 小浜の大谷さん夫婦の食堂には、昔、父親の得意先がやってくることがある。「おいしかった、まずかった、みなさん思うままにいってくださる。魚が少なくて、この魚が食べたいと思っておいでた人をお断りすることも増えた」と、妻信子さん。信子さんは義父が「おい、丹波料理を食べようか」と、教えてくれたアオリイカを刻んで煮え湯をかける料理が懐かしい。こんな塩して食べる方法もあるのか。浜で育った信子さんには新鮮だった。

 「朽木からお年寄りが見えて、ハマチの刺身を食べながら、うちらではハマチの薄塩を刺身にする。甘味が出ておいしいと、聞きました。グジなら知ってますが、ハマチも薄塩で食べるなんて、小浜では考えもつかない」

 店は息子夫婦が継いだ。ところが、店をやめたいといいだした。時代の流れなのか、どこかがおかしいのか。魚を使うにしても、これが地魚と胸を晴れない浜の事情は、両親が大谷さん夫婦に店を残した時代から激変している。

 空き店舗対策で隣にサバ街道資料館ができた。かつての写真がかけてある。父親の掛け帳も出した。サバ街道は親父(おやじ)の道、遠ざかる父、母の背中を求めて足を運ぶ回数がめっきり増えた。

(1999.10 文=粟津征二郎 写真=山本武人) 

 ■豊漁は昭和30年まで

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若狭名物の焼きサバの匂いが商店街を包む
 泉町に焼きサバの匂いが漂う。朽木屋の看板。

 「うちは朽木まで魚を運んでいた。お殿さんにもらった鑑札もあったが、どこへ行ったのか。もったにない、というてます」と益田文子さん。かつては、浜で焼くサバの煙が小浜を包んでいた。焼いても焼いても、水揚げのサバが追いかけてきた。浜焼きは二つ割りにした竹の串(くし)に縦にはさみ、炭火で頭を下に、白焼きにした。全体が茶色になるぐらいが持ちもよく、翌朝、娘たちが売りに出た。

 塩サバは背割りしてはらわたをきれいにとり、きれいに洗う。売り物は、頭をつけ、塩がよく通るように目の玉をつぶす場合もあった。

 観光ボランティアガイドの白石晴義さんは、大学が京都。下宿先の人が明日から若狭へ泳ぎに行く、という話から、地図で若狭の位置を確かめたのが、若狭とのつきあいの始まり。就職は東芝の前身、芝浦製作所に決まり、小浜工場に赴任する。

 「寮生活でしたが、自炊中心。サバのぶつ切りを買って帰って、煮たり焼いたり。昭和二十五年から三十年まではよくとれた。馬車で運ぶ荷から落ちるサバをトンビが拾っていた。退職して、語り部の仲間入り、第二の故郷で観光客に若狭の昔を伝えている。小浜と京都のつながりは強いなあ」

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