魚影求め 北へも西へも

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海の見える物置二階が貝井さんのアトリエ。海岸まで、サバのわくシラガキが押し寄せた

 秋から冬、海は色を変える。暗い空と海がくっついて鉛色になる。魚が動く空だ。

 イワシ不漁の周期に入り若狭の漁師はじっと魚を待っている。

 山がすべり落ちたような海岸の集落をいくつか通り過ぎると田烏(たがらす)に着く。

 サバは、外洋に突き出た半島の海が古くからの漁場になっていた。例えば、能登、越前、若狭、丹後の海があてはまる。田烏は若狭の中でも高浜、小浜、日向と並ぶ屈指の漁港である。 山下良典さん、四十三歳。水産高校卒業後、焼津で五年マグロ船に乗り、田烏で父の船を継いだ。

 「イワシの周期にぶつかったのか、ここへ戻っていらいの不漁にあえいでいる」と、網にかかるクラゲの多さのみが目立つ今年前半を振り返る。山下さんの子供の頃の思い出の中にある大漁は巻き網漁全盛期と重なる。

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若狭富士と呼ばれる青葉山の影に誘われて魚はやってくる
 巻き網漁は、サバの群れを見つけ、二層で網を巻くように追い込み、一網打尽にする漁法である。巻いた網の底から魚が逃げないようロープで絞ることから巾着(きんちゃく)網の別名がつく

 サバの群れにブリ、サワラが追いかける。魚群探知機もいらない、海を見ているだけでいい。戦後から続いた大漁の時代が終わり、やがて巻き網船団は、若狭を離れ北へ向かった。

 田烏の風景とは一変する海岸線は、隣の和田とともに海水浴場でにぎわう高浜。青葉山を背景に、船が戻ってくる。漁師、貝井春治郎さん(六五)は、巻き網船で、能登から東北、北海道へと、北へ北へと魚を移動した一人である。

 「高浜の海面が真っ白になるほどサバが沸いた。白くなるからしらがきとも呼んでいた。磯や浜にサバが打ち上げられた。それが、十年持たなかった。群れを探して西は鳥取から輪島、酒田、佐渡、青森と転々しながら北海道へたどりつく。さらに小樽、留萌、増毛と北へ上る」

 海の表情 焼きつけ50年

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サバ豊漁の頃は巻き網漁が盛んだった(貝井さんのスケッチ)
 まだ二十歳前、船団では一番若く、炊事、洗濯はすべてまかされた。おかずは、サバのぶつ切りをネギとしょうゆと卵で食べた。それが結構、海の味がしてうまい。貝井さんには忘れられない青春の味ともいえた。

 絵心のあった貝井さんが日記代わりに北の港を描き始めたのはこの頃である。

 「北の港は若狭とは色が違う。なんとも魅力的だった。時間が惜しいと思うぐらい、どろどろの長靴、服のまま、港、町でのスケッチに没頭した」

 若狭の漁師がケシキ(景色)と呼ぶ海の風景は、刻々変化する。それは漁師の顔にも当てはまる。例えば海が荒れる。シケになる前の顔つきが違う。漁師はいつも海を通る風を見ている。貝井さんは漁師でなければわからない漁師の顔、魚を描いてきた。漁や暮らしを語るのではなく、絵にしてきた。

 「年取ると、仏像に目がいく。船底は海の底につながっている。生死の境をなんどもくぐるから、漁師は信仰心は人一倍強い」

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貝井さんの作品「岬の大敷網」。海の労働で磨いた漁師の筆が漁師を描く
 若狭は仏像の宝庫でもある。貝さんの五十年の絵を追っていくと、魚、暮らし、信仰という若狭の風土が凝縮されている。自宅の物置二階、海の見える部屋がアトリエだ。

 貝井さんは高浜で漁業史と考古学を研究している兄から、奈良の平城京から発掘の木簡には、高浜の魚が印されていると、聞いた。高浜―京都こそ、歴史の古いサバの道。高浜の魚が若狭街道経由で運ばれるようになったのは江戸時代。文献では、雪で丹波通(堀越峠越え)を止めて熊川へ迂回(うかい)したのが始まりで、若狭ひとしおの本家は高浜の漁師の自負を、貝井さんも受け継ぐ。

 貝井さんが好んで描くのは鉛色の海。漁師にとって大漁を予感させるあたたかい色だ。ケシキを見つめてじっと待つ。移り変わる空に似て、魚にも周期がある。

 淡路の沼島の漁師がハモについて、関空、明石大橋ができて、ハモが落ち着くまで時間がかかると、語っていたのを思い出した。

 青葉山の影を見てまわってくる若狭の魚も、同じ思いなのだろう。

(1999.10 文=粟津征二郎 写真=山本武人) 

 ■姿消す 巻き網漁

 若狭から巻き網漁は姿を消している。資源的には一網打尽の網漁は課題を残すが、なによりも漁獲減と一船団三十人から五十人ものチーム編成の人手不足が理由だ。九州あたりでは、巻き網が盛んで、水揚げも多い。若狭から丹後までの海で巻き網漁が継承されているのは、伊根。漁連によると「七年前から北海道がだめで、近海で網を入れている。

 ことしは、北海道が久しぶりに良さそうと聞いて、八、九月予定していたが、やはり、中止。巻き網漁はどこでも網を入れることができる仕組みになっているが、肝心の魚がいない。新潟あたりのアジ、サバも数が知れている」と、説明する。

 高浜と伊根とは、古くから交流があり、距離的には宮津、舞鶴が近くても、船で海側から来れば、時間的に早かった。

 陸路でも、戦国時代に丹波、丹後とのルートがすでにあったらしく、天正二(一五七四)年に高浜の魚問屋を束ねた「丹波屋」の名前が残る。

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