考えれば何でもできる
(4)独自理論への糧−元同大ラグビー部監督・岡仁詩
ちょうど30年前。日本代表監督として強豪ウェールズとのテストマッチを控えた記者会見だった。「30点差以内なら大成功ですかね」との質問に顔色は変わった。「何を言うんですか。勝つつもりですよ。百に一つでも勝つ可能性を求めて戦うのが監督です」。結果は大敗。劣勢は覚悟しても、負けると思って試合に挑んだことは一度もない。
同大ラグビー部の監督に就任したのは29歳の時だ。負けて大泣きしたり、しょげた素振りを見せる指導者ではなかった。「負けた瞬間に『しゃあない』と思えるようになりたい。また、そう言えるように頑張らないとあかん。それで次に頑張ればいい」。負けた瞬間に次のことを考え、敗れた理由を必死になって研究した。独自の理論を生み出す情熱となった。
「打倒関東」胸に
「ラグビーは考えてやるんだよ」。学生時代から、昭和初期に京大の名センターとして活躍した故・星名秦(後の同志社大学長)に教えを受けた。星名は海外の技術書を翻訳したメモを「教科書」に、研究室や喫茶店で最新理論を話した。数々のサインプレーや最新戦術を教わったが、本当に学んだのは「考えれば何でもできる」という姿勢だ。時代とともに細かな理論は変わっても、「考えるラグビー」を目指す根幹の部分は変わらなかった。
国内3校目に発足し、創部94年を迎える同大ラグビー部。草創期からの歴史を振り返れば、関東に勝てない時期も長かった。岡が選手時代を過ごした昭和20年代も早大、明大には黒星続きだった。最終学年の明大との定期戦は10−92と大敗した。スクラムは一直線に押し込まれた。試合後、後輩が「怖かったなあ」と言うのを聞いて情けなく思った。「自分が監督になって明大に勝ちたい」。今も忘れられない一戦が指導者への道へとつながった。
| 星名譲りの考えるラグビーで、新しい戦法に意欲を燃やした(1971年5月、同大岩倉グラウンド=当時) |
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| おか・ひとし 75歳。大阪市旭区出身。旧制天王寺中5年の第26回全国中学大会(現在の高校大会)で四強入り。同大を卒業後、29歳でラグビー部監督に就任し、部長、総監督、技術顧問などを歴任。日本代表監督も務めた。大学では文学部教授を務め1995年に退官。現在は同大学名誉教授。京田辺市在住。 |
監督就任2年目の60年。初めて早、慶、明大をそろって破った。星名の考えを発展させた、固定観念に縛られないプレーが軸になった。大きなFWがロングパスを放り、ハイパントをける。一番好きなプレーはタックルと答える学生に言った。「本当か。一番うれしいのはトライやろ。トライすれば飛び上がって喜ぶやろ。FWでも走ってトライすればええ」。61年のNHK杯で近鉄を破って初の日本一、63年の第1回日本選手権も制した。
再び関東に勝てない時期に入ったが、独自戦術に磨きがかかった。ルールが大きく変わり、工夫の余地も増えた。スクラムからFWがダイビングパスを放って展開するプレーは話題を集めた。奇手と騒がれたが、本当の狙いは弱点の球出しを隠すことにあった。負ければ「小手先ラグビー」と批判を浴びたが、「実験とはそういうもの。分かってないなあ」。研究への意欲は衰えなかった。
学生にも新しい試みを面白がって取り入れる気風があった。顕著だったのは平尾誠二(現神戸製鋼GM)らが中心になって3連覇(82−84年度)を達成したころ。「おもろい。やりましょか」「それなら、こうした方が」と発想は自由に広がっていった。選手に指導する時は「こういう考え方もあるで」と必ず選択肢を与えた。学生に考えさせるためだった。
個人主義を徹底
大阪で過ごした10代の時、空襲を経験している。個人が統制された時代を肌で知るだけに、チームでは個人主義を徹底した。「自分で考え判断して、行動する。そして責任を持つ。それはラグビーの試合そのもの」という。高めた個人の能力を、どう組織化するか。個々の弱さを集団で補うのでなく、1人の強さを束ねて増幅させる。集まる選手の個性によって戦い方は自然と変わり、形がないのが「同大の形」となった。
3連覇を最後に20年近く学生王者から遠ざかっている。「勝った時は勝手なことをしていた。初めてのことに取り組んで負けもしたが、それがあったから勝てた。やはり同志社は『サムシング・ディファレント』。何か違うものがないと日本一にはなれないと思う」。学生が明快な答えを見せてくれる日を楽しみに待つ。