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(1)釜本邦茂サッカーの歴史

日本のサッカー界に1時代を築き、メキシコ五輪で銅メダルを獲得、得点王に輝いた釜本邦茂氏。京都出身の世界のストライカーの戦歴を紹介します。

1980年(昭和55)、西京極競技場での日本リーグ、対三菱戦で、ヤンマーのゴールキーパーがケガをして途中退場、釜本氏がキーパーを務めた。ストライカーがゴールに背を向けた珍しいシーン
1980年(昭和55)、西京極競技場での日本リーグ、対三菱戦で、ヤンマーのゴールキーパーがケガをして途中退場、釜本氏がキーパーを務めた。ストライカーがゴールに背を向けた珍しいシーン

 京都府立山城高校で頭角を現しました。当時のコーチ、森貞男(ただお)氏も、サッカーの著書「明日に夢を!」で印象を語っています。当時の仲間には、Jリーグマッチコミッショナーの二村昭雄氏(元日本代表、日本リーグ東洋工業監督など)や、同志社大学の古川勝巳教授らがいます。

 早稲田大学を出て、日本リーグ時代のヤンマーで活躍。Jリーグが誕生してからは、ガンバ大阪の監督も務めました。しかし、順風満帆のサッカー人生と思われがちですが、メキシコ五輪後の25歳のときには、肝炎にかかり、選手生命も危ぶまれるほどでした。

 旧日本リーグの100得点目は、1974年の30歳のときです。200得点目は1981年の37歳のときでした。通算202得点を挙げ、1984年、40歳のときに引退を発表しました。

1983年(昭和58)10月、右足アキレスケン切断から1年半ぶりで練習再開の釜本氏(尼崎市のヤンマー体育館)。翌年に引退を発表した
1983年(昭和58)10月、右足アキレスケン切断から1年半ぶりで練習再開の釜本氏(尼崎市のヤンマー体育館)。
翌年に引退を発表した

 翌年3月、太陽が丘(宇治市)で行われた第20回京都招待サッカーで、京都選抜チームの監督を務めましたが、後半31分に交代出場し、地元京都の観客に最後の勇姿を見せました。試合後、京都サッカー協会から功績を称えるブロンズ像が贈られました。

 取材で釜本氏の足を見たことがあります。タコの吸盤のようなアザがいっぱい残っていました。相手の選手にスパイクの底で蹴られた跡でした。吸盤に見えたのはスパイクのポイントが釜本氏の足に食い込んだのでした。

 2003年7月現在、日本サッカー協会常務理事の要職にあります。日本代表チームの海外遠征に同行したり、世界のサッカー著名人との交流など、いわば「日本サッカー大使」のようなポジションにいます。

(03年7月22日)