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メキシコ五輪銅メダル 1968(昭和43)年 日本サッカー協会名誉副会長 釜本邦茂さん

(2)雑踏で磨いたドリブル感覚

日本代表として代名詞とも言える「右45度のシュート」に磨きをかけた(1965年12月7日、京都市右京区・西京極競技場)
日本代表として代名詞とも言える「右45度のシュート」に磨きをかけた(1965年12月7日、京都市右京区・西京極競技場)

<1964年、東京五輪に挑む日本代表の合宿に参加した。チーム最年少の20歳。ゴール右前から放つ得意の「右45度のシュート」に磨きをかけた>

 左足シュートの確率が良くないので、マシューズというイングランド選手のフェイントをヒントにして、左へ行くと見せかけて右にボールを持ち出すドリブルを身につけました。センターフォワードの位置から繰り出すと大体、ゴールの右から45度になるわけです。決まる確率が高いのは左ゴールポストあたりだった。狙った場所にけるために、ゴールバーに包帯をくくりつけて的にしていました。

<東京五輪の日本チームは準々決勝で敗れた。4試合すべてに出場したが、わずか1ゴールに終わった>

 オシム(前日本代表監督)のいたユーゴスラビアとの5、6位決定戦で、はね返ったシュートを押し込みました。いわゆる「ごっつあんゴール」。東京五輪での収穫は「サッカーをやっていたら五輪に出られる」という夢がかなったこと。世界の中で自分の置かれているポジションも分かりました。日本では1番と思っていたが、五輪に出たら三流だった。スピード、体の使い方、判断、あらゆるものが足らなかった。

<東京五輪後、左足シュートの精度向上を目指した。ドリブルを磨くため、繁華街の雑踏で通行人をディフェンダーに見立てかいくぐった>

 相手ディフェンダーは自分の得意な右足への対策を立ててくる。自分には絶対と思えるものがあるのだから、その逆を高めようと考えた。

 練習帰りに新宿の歌舞伎町を歩きながら、前から歩いてくる人をかわすのです。相手に近づきすぎたら怒られるし、遠すぎると意味がない。一番いい距離がドリブルで相手を抜く間合いと同じ。ドリブルも前へ行きすぎると相手とぶつかるし、遠ければフェイントにならない。

<67年9月、メキシコ五輪アジア最終予選が始まった。初戦のフィリピン戦で6ゴールをたたき込むと、宿敵の韓国戦でも得点を挙げた。五輪本番に向けてよりレベルアップを図ろうと、翌年、3カ月間のドイツ留学に向かった>

 ザーリュブリュッケンという街で生活しましたが、図書室にあったサッカーの試合フィルムを毎晩のように見ました。ワールドカップ、欧州選手権、ドイツリーグ。そこで思った。自分は天才のペレ(ブラジルの名選手)にはなれない。でも強烈なシュートを打つポルトガルのエウゼビオならなれる。エウゼビオが所属するベンフィカの試合は全部見ました。

 留学で無駄なプレーをしない大切さを学びました。ボールをトラップしてゆっくり回って動き始めるのではなく、受けた瞬間に前を向く方法を考えました。東京五輪のころ、コーチだったドイツ人のデットマール・クラマーさんから「北海道のクマのようにウスノロだ」と言われていた。ドイツで世界レベルのプレーをイメージし、メキシコへ向かったのです。

(2009年12月11日付け紙面から)