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メキシコ五輪銅メダル 1968(昭和43)年 日本サッカー協会名誉副会長 釜本邦茂さん

(4)病克服、リーグ202得点の金字塔

<メキシコ五輪から約半年後に患ったウイルス性肝炎の治療は、思いのほか長引いた。2カ月近く入院し、釜本のサッカー人生も大きく変わった>

 最初は胃が痛くて、じっとしているのもしんどかった。6月の代表合宿には胃薬を持参したが、少し走っただけで苦しくなる。数日が過ぎると白目の部分が黄色くなり、みんなが「おかしい」と言い始め、すぐに入院しました。

 ワールドカップ予選が迫り早く退院したいと頼みましたが、医師に「何を言っているんだ」と止められました。あきらめるしかなかった。いつ全快するかわからないし、目標にしていた海外でプロになるという状況ではなくなりました。

<治療薬と漢方薬を1日8回も飲む生活が3年間続いた。だがヤンマーの一員として日本リーグ出場を続け、ゴールを量産した>

 入院した50日間は何もできず、寝ているだけ。太ももが細くなり試合で激しくボールを取りにこられると、けがをするようになった。ひざ、足首、腰にも痛みを抱えていたが、その3年を過ぎると調子が再び上向いてきた。

 ヤンマーも自分が入ったころに比べて強くなっていた。すべてを自分がする必要はなくなったので、ペナルティーエリアの中でどう勝負するかに集中しました。センタリングに合わせる練習を数多くこなし、チームメートには「ピンポイントでパスを出してこなかったら承知しないぞ」と要求した。自分の生きる道を探っていました。

<ゴールへの執念は衰えず、1981年に日本リーグ200ゴールを達成。通算251試合出場、202得点、7度の得点王という金字塔を打ち立てた>

 病気から復帰した後も得点王を5回獲得しました。得点できなかった試合は「ロッカールームへの直通のトンネルがほしい」と思いました。誰にも会いたくないし、話もしたくなかった。自分は「点入れ屋」。試合に勝つことはうれしいが、自分の仕事ができなければ面白くはない。

 82年にアキレスけんを断裂した。選手はけがが原因で引退することが多いが、それではつまらない。ヤンマーの監督をしながらリハビリに打ち込み、もう一度試合に出て結果が出たらやめようと考えました。ちょうど83年の天皇杯で決勝まで進みました。負けたのですが、後半25分ぐらいから出場できた。もうこれでいいと思いました。

<引退試合は84年8月、国立競技場で6万人を集めて行われた。ブラジルのペレら名選手も駆けつけ、最後は大観衆の「釜本コール」を浴びてピッチを去った>

 超満員で驚きました。ペレやオベラート(西ドイツの名選手)が喜んで駆けつけてくれた。サッカーに言葉はいらない。プレーをしていたらお互いの共通理解がある。最後の釜本コールは照れくさかった。こういう形で引退でき、満足した気分で現役を終えられました。

(2009年12月13日付け紙面から)