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京都陸上競技協会の朝隈善郎さんが2008年12月に死去

陸連名誉副会長・京都陸協名誉会長 朝隈善郎氏死去

朝隈善郎氏
朝隈善郎氏

 京都陸上競技協会名誉会長、日本陸上競技連盟名誉副会長で一九三六年のベルリン五輪走り高跳び代表の朝隈善郎(あさくま・よしろう)氏が二十二日午前二時、老衰のため京都市上京区で死去した。九十四歳。広島県出身。通夜は二十三日午後七時から、葬儀・告別式は二十四日正午から、いずれも京都市中京区上樵木町五〇三ノ一、かもがわホールで行う。喪主は長男和彦(かずひこ)氏。


■全国女子駅伝生みの親

朝隈氏が創設にかかわり、見守り続けてきた全国女子駅伝。閉会式では京都のチーム関係者をねぎらった(京都市右京区の京都市体育館)
朝隈氏が創設にかかわり、見守り続けてきた全国女子駅伝。
閉会式では京都のチーム関係者をねぎらった(京都市右京区の京都市体育館)

 京都陸上競技協会名誉会長、日本陸上競技連盟名誉副会長の朝隈善郎さんが二十二日、九十四歳で亡くなった。一九三六(昭和十一)年のベルリン五輪などで活躍した走り高跳びの選手としてだけでなく、日本の陸上発展に尽力。八三年に京都で始まった全国都道府県対抗女子駅伝の「生みの親」だった。

 一九八一年冬。毎年、街を沸かせてきた京都マラソンの視察車での会話がエピソードとして残っている。「マラソンに替えて女子の駅伝をやりましょう」と日本陸連の青木半治会長(現名誉会長)が提言し、同乗していた朝隈さんらが即座に賛同。二年後に四十七チームが顔をそろえて大会が始まった。

 当時、日本陸連理事だった朝隈さんは東京と京都のパイプ役となって誘致に尽力した。京都府体育協会の桝岡義明会長(72)=京都陸協会長、京都市左京区=は「朝隈先生は『京都には華となる大会がない。さすが京都と言われる大会を呼ばなければ』と言われていた」と思い返す。京都陸協の小山真吾副会長(76)=下京区=も「よく女子だけの大会を発想されたものだ。日本の陸上が強くなるにはどうすべきかを、いつも考えておられた」と振り返った。

 情熱を注いだ全国女子駅伝について、朝隈さんは「陸上競技人生の最大の思い出であり、産物」とかつて述懐している。ともに女子駅伝の発展に尽くしてきた日本陸連の桜井孝次名誉副会長(72)は「女子駅伝で運営にあたる後輩の我々を、親のような気持ちで見守っていてくれました」と話した。

■陸上発展に尽力

ベルリン五輪の走り高跳びで6位入賞した朝隈さん=1936年8月、ベルリン市内
ベルリン五輪の走り高跳びで6位入賞した朝隈さん
=1936年8月、ベルリン市内

 1936(昭和11)年のベルリン五輪の走り高跳びで6位入賞し、全国都道府県対抗女子駅伝の創設などに尽力した京都陸協名誉会長の朝隈善郎さんが22日に亡くなった。長年にわたって京都陸上界をけん引してきた功労者の訃報(ふほう)に悲しみの声が広がった。

 14(大正3)年に広島県府中市で生まれた朝隈さんは旧制府中中学で競技を始め、日体大、明大で活躍。34(昭和9)年の日米陸上対抗では、日本人初の「2メートルジャンパー」となって優勝した。ベルリン五輪後は指導者となり、数多くの跳躍選手を育てた。

 日本陸連の強化委員長、副会長などを歴任し、83年にスタートした全国都道府県対抗女子駅伝を創設、地元に誘致するなど京都陸上界のリーダー役として活躍した。

 89年からは京都陸協会長を務め、陸上界の発展を見守ってきた。

■指導に工夫、熱意の人

ミュンヘン五輪に向けて山田宏臣選手の練習に取り組む朝隈さん(右)=1969年12月19日、京都市東山区の知恩院
ミュンヘン五輪に向けて山田宏臣選手の練習に取り組む朝隈さん(右)
=1969年12月19日、京都市東山区の知恩院

 朝隈さんが陸上選手として活躍したのは背面跳びやベリーロールはなかった時代。正面跳び(はさみ跳び)で挑み、1934年に日本人で初めて2メートル00を超える日本記録を樹立。翌年には2メートル01と記録を積み上げた。日本陸上史を研究する岡尾恵市・立命大経済学部名誉教授(70)=京都市左京区=は「自分の身長より20センチ以上高いところを跳んでいた。背面跳びであれば2メートル30センチは跳んでいただろう」と話す。

 卓越した踏み切り力が強さの秘訣(ひけつ)だった。日体大の後輩で京都陸協でも師事した筒井博さん(69)=伏見区=は「踏み切ったら、(地面がめくれて)わらじのような土が飛び散ったそうです」と明かす。

 32年のロサンゼルス五輪の優勝記録は1メートル97。ブラジル遠征で自信をつけた朝隈さんは次のベルリン五輪の有力なメダル候補だった。だが、ドイツまでの船旅で胃腸をこわし急性蓄のう症に襲われた。痛みに耐えて1メートル94を跳んだものの6位。筒井さんは「朝隈さんは世界記録が出るはずだったと悔やんでいた」と振り返る。

 日常生活にトレーニングを取り入れた工夫の人でもあった。学生時代、東京・銀座で柳の並木道を歩いていた時、垂れ下がった枝を見つけてはジャンプをして跳躍力を鍛えたという。創意工夫する熱意は戦後、指導者になってから役立った。走り幅跳びの日本人初の8メートルジャンパー、故山田宏臣さんを指導した時は、知恩院の階段をつま先や手押し車で上る練習を取り入れた。

 走り幅跳びでソウル五輪に出場した洛南高陸上部顧問の柴田博之さん(45)=城陽市=も自宅に招かれ、助言を受けたことがある。「『お前にとって8メートル跳ぶことは価値のあることだ』とおっしゃた言葉が忘れられない。心構えや気持ちを教えていただいた」と陸上の大先輩をしのんだ。

(2008年12月23日付け紙面から)