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35歳の心・技・体 朝原の100メートル

(上)集大成のフォーム 一枚の絵のように走りたい(世界陸上大阪2007)

競技者生活の集大成として世界選手権大阪大会を目指す朝原(5月5日の大阪国際グランプリ・長居スタジアム)
競技者生活の集大成として世界選手権
大阪大会を目指す 朝原
(5月5日の大阪国際グランプリ・長居スタジアム)

 陸上男子百メートルの前日本記録保持者、朝原宣治(大阪ガス、同大出)が、競技生活の集大成として世界選手権大阪大会(2007年8月25日―9月2日、長居スタジアム)を目指している。6月21日で35歳になるが、5月には10秒15をマーク、世界選手権の参加標準A記録を切った。過去、五輪に3度、世界選手権に5度出場。豊富な経験で培った技術、ピークを維持する体力、戦い続ける精神力―。輝きが色あせないベテランの強さの背景を探った。

■きっちり45歩 綿密計算

 高校時代に陸上を始めてから20年目。成功と失敗を繰り返しながらたどり着いた百メートル走の最終形のフォームが今、完成しつつある。パズルのピースを合わせていくような作業だが、「結果は同じタイムでも、練習の過程が違う。逆に違う走り方なのにタイムが一緒だったり。実験みたいで楽しい」とほほ笑む。ゴールまで約10秒。きっちり45歩で走り切る一連の動きは、綿密に計算されている。

 誰もが神経質になるスタート。「体を動かそう」と頭で考えると力むため、「ブロックへ足を伸ばす時、余計なことは考えない」。ピストルの音は「聞く」のではなく「反応」する。何か一つに気持ちを傾けることはなく、100メートル全体のバランスを考えて飛び出す。

 30メートルまでは加速をしっかりと味わい、スパイクが接地する感触を確かめるように踏み出していく。加速に乗りやすい前傾姿勢を保ち、視線は3メートルほど先の地面に落とす。「自分の両足しか見えない」。40メートルを過ぎると上体を起こし、後半への準備を始める。

■失速防ぐ

 60メートル以降は失速を防ぐことが最大テーマ。前傾から起きた体は浮いてしまいがちで、力を逃さずに地面をけれているかを点検する。ぶれずに体の重心を運ぶため、レース前のアップでは蛇行して走り、「真っすぐ」の感覚を取り戻しておく。90メートルを過ぎればフィニッシュが迫る。「早くゴールしたい気持ちを抑え、最後の最後で胸を突き出す」

 同大卒業後の1995年にドイツ留学して基礎練習を積み、2001年からは米国で指導を受けスプリント技術を蓄えた。大学時代から支援を続ける同大陸上部の西村彰監督(五八)は「どうすれば記録が出るか、すべては朝原の頭の中にできているはず。課題はコンディショニングだけ」と言い切る。

 長い競技者生活で磨き上げた技術の数々を、短い100メートルの中で残さず表現できるか。朝原は今、スタートからフィニッシュまで「一枚の絵のように走りたい」と話す。

 世界選手権を狙い、今季は春から積極的にレースに出たが、タイムは安定しなかった。4月29日に追い風参考ながら10秒18をマークしたが、5月5日の大阪国際グランプリは10秒38と失速。「おっさんになって毎週のレースはきついかな」とこぼした。でも走りを微調整し、5月20日の関西実業団で世界選手権参加標準A(10秒21)を破る10秒15をマークした。10秒2を切ったのは3年ぶりだ。

■己を掌握

 四百メートルの日本記録を持つ日本陸連の高野進・強化委員長は「大胆さと繊細さを兼ね備えているのが彼の良さ。自分を掌握する感覚が30代半ばになってつかめたのだろう。今年は伸び伸びした走りが戻ってきた」と印象を話す。6月29日から3日間、大阪・長居スタジアムで開催される日本選手権が世界選手権への最終選考レースになる。3位以内に入れば、百メートル代表として5度目の出場が決まる。

あさはら・のぶはる 兵庫・夢野台高で陸上を始め、91年に同大入学、95年に大阪ガス入社。93年に日本人初の10秒1台となる10秒19をマークして以降、百メートルの日本記録を計3度塗り替えた。自己ベストは日本歴代2位の10秒02。五輪は3度、世界選手権は5度出場。走り幅跳びでも日本歴代4位の8メートル13の記録を持つ。179センチ、75キロ。京都市中京区在住。


(中)疲労との戦い 全力発揮へ工夫重ね 練習量落とせば力は落ちる(世界陸上大阪2007)

関西実業団で世界選手権参加標準A記録を破る10秒15をマークした朝原(右)=5月20日、尼崎市記念公園陸上競技場
関西実業団で世界選手権参加標準A記録を破る
10秒15をマークした朝原(右)
=5月20日、尼崎市記念公園陸上競技場

 今年1月下旬。猛暑のバンコクで毎日たっぷりと走り込んだ。毎年、オフに行う恒例の海外合宿だが、今年は2カ月間と異例の長期だった。この2年ほど遠ざけていたウエートトレーニングも、昨冬から再び取り組み始めた。高速回転する下半身を支える腰回りは大きくなり、上半身の筋肉も隆起している。「今年はエンジンを大きくして、ピークパワーを増やしたかった」。筋力が増し、小さなミスならレース途中で取り返せる余裕もできた。

 バーベルをかつぐのは筋力アップだけが目的ではない。重量180キロのスクワットは股(こ)関節回りや体幹を鍛えるのと同時に、ひざ関節などの故障を防ぐ狙いもある。トラック練習後に汗を流すと疲労回復が早まる感覚もある。「年をとって分泌されにくくなった成長ホルモンが、ウエート練習で活性化されるのではと勝手に想像している」と笑う。

■全神経集中

 一気に頭上まで持ち上げるスナッチは95キロが「自己ベスト」。上半身を鍛えるのが狙いではなく、意識して全力を発揮するための工夫だ。「集中しないと上がらない重さにして自分を追い込む。一種のメンタルトレーニング」。全神経を集中させ瞬発力を爆発させるスタート時を想定している。

 プロ野球・阪神の金本知憲らの体力研究などを行っている京都府立医大の吉川敏一教授(内科)は「負荷をかけた時にできる筋肉の量はホルモンに依存している。必要な時に出るのがホルモンで、ウエート練習が促すこともあり得る」と朝原の感覚を裏付ける。「若いときと同じように過ごしていては駄目。大切なのは栄養と環境で、すべてホルモンの生成に関わっている」と助言する。

 前からは細身に見えても、前後の筋肉が発達し横から見ると立体感が感じられるフォーム。「末続君(二百メートルの日本記録保持者)はけんのバネで、推進力が強い朝原君は筋肉で走るタイプ」と分析するのは長年、朝原の体のチェックを担当するミズノの岩本広明トレーナー(三九)。わずかな瞬発力の低下は認めるものの、「長い経験でしっかりと要所を押さえている」と朝原の練習の充実ぶりに目を向ける。

■効率的休養

 「練習量を落とせば力は落ちる。練習はできるなら絶対にした方がいい」と断言する朝原。だが年々、疲労回復の時間が長くなっているのも確かだ。練習で極度の負荷をかければ結果的に休む時間も増え、故障の不安も増える。ダッシュ、ウエート練習、300メートル走…。量と質の組み合わせ、取り組む順序でも疲労度は違う。効率的な休養をはさみ、総量で最大となる練習メニューを考え抜く。

 29歳で自己ベスト10秒02を出した後、30代でも10秒0台を2度マークした。朝原の衰えは数字の上にはあまり現れていない。世界では百、二百メートルのフレデリクス(ナミビア)ら、30代後半まで好記録をマークし続けた短距離ランナーも少なくない。岩本トレーナーは「朝原君は長く競技を続けられることを日本人選手に伝える役目を担っている。35歳でもできる、というメッセージを伝えてほしい」と期待を寄せている。

◇朝原の各年の100メートルベストタイム◇


(下)衰えない意欲 家族の支え 大きな力 今季は走りたくて仕方ない

「世界選手権に出場するだけでなく、活躍したい」と抱負を話す朝原(大阪市・大阪ガス本社)
「世界選手権に出場するだけでなく、
活躍したい」と抱負を話す朝原
(大阪市・大阪ガス本社)

 アテネ五輪があった2004年は10秒0台で走ったものの、05年は10秒29、06年は10秒37とタイムは落ちていった。長引く不調に周囲では「引退」「限界」の声がささやかれたが、「若いときは毎年走りたくて、調子を落とすのが怖かったが、今は好不調の予測が立つから」と楽観的に構えていた。「練習を積めば必ず走れる」という自信は揺らがなかった。

■目標定まる

 だが、目標が定まるまではベテランの心もさまよった。05年の世界選手権を終えた後は目標を見失った状態に陥った。大きな世界大会がない「中間年」の昨年は意図的に練習量を落とし、「適当に楽しんで乗りきればいい」と考えていた。だが記録は出ないと分かっていても、レースで負ければ悔しさは募る。平凡なタイムで走る自分も許せなかった。勝ちたい意欲が再びわき上がってきた。「昨季は走れなくても仕方がなかった。でも、今季は走りたくて仕方がない」。地元・大阪での世界選手権というテーマも重なり、気持ちがいや応なしに高まってきた。

 陸上のトップ選手としては異色で、専属のコーチがいない。レースでビデオ撮影などを担当し、現在もアドバイス役を務める同大の西村彰監督は「自分は環境整備係」と笑う。「気になれば注意するが、技術は私たちの想像を絶するレベル。困れば彼の方から聞いてくる」と信頼する。一方で朝原は「何かヒントが見つかるかも」と、陸上経験のない人の率直な感想にも耳を傾けることがある。20年近いキャリアを積んでも、競技に臨む柔軟な姿勢は変わらない。 女子三千メートル障害の日本記録保持者の早狩実紀(三四)は同大時代の同級生。同じように個人練習を中心に競技に取り組んでおり、早狩は「真剣だけどマイペースなところなど共通する感覚が多い」と話す。早狩はすでに世界選手権出場が「当確」になっており、2人が日本人の男女の最年長選手となる可能性もある。「大学時代の仲間は笑うかも。長く競技を続けるタイプとは思えないほど、昔から朝原さんも、私もそんなにまじめでも、熱血でもなかったから」と振り返る。

■人間的成長

 02年にシンクロナイズドスイミングの五輪メダリスト奥野史子さんと結婚し、現在は4歳の長女と10カ月になる長男の父親でもある。20代のように競技だけに集中できる環境ではなくなったが、ミズノの岩本広明トレーナーは「長く競技を続けているのは奥さんの影響もあるのでは。彼女が競技者として頑張ってほしいと励ましていると思う」と打ち明ける。5月の大阪国際グランプリは長女の声援を受け、「長女に自分の姿を見せたいと、自然とモチベーションが高まってきた」とほほ笑む。環境の変化を率直に受け止める人間的な成長も、競技を支える大きな力になっている。

 悲願の百メートルの世界ファイナリスト、夢の9秒台、四百メートルリレーのメダル。虎視して狙ってきた目標が達成されずに残っている。「世界選手権にはぎりぎりで出場するのではなく、活躍したい。やりがいのあるチャレンジだと思っている」と淡々と決意を語る。わずか10秒前後に自分のすべてを注ぎ込む、大きな勝負の舞台が迫ってきた。