京都新聞社TOP

陸上の朝原宣治さんに「21年間の競技生活」を聞く

■走り続けた21年 4度目の五輪、結実

北京五輪の男子400メートルリレー決勝でゴールを目指すアンカーの朝原さん(左端)。日本陸上史に残るレースとなった=2008年8月23日、北京市・国家体育場(共同)
北京五輪の男子400メートルリレー決勝でゴールを目指す
アンカーの朝原さん(左端)。日本陸上史に残るレース
となった=2008年8月23日、北京市・国家体育場(共同)

 日本の陸上男子短距離のエースとして活躍してきた朝原宣治選手(36)=大阪ガス、同志社大出=が二十三日、川崎市等々力陸上競技場でのセイコー・スーパー陸上大会で現役最後のレースとなる男子百メートルに出場、10秒37で日本人最高の3位に入り、約二十年の競技生活を終えた。

 陸上の男子四百メートルリレーで日本が銅メダルを獲得し、脚光を浴びた昨年夏の北京五輪から半年。アンカーを務めた朝原宣治さん(大阪ガス、同大出身)は9月に引退し、現在は指導者として活動を始めつつある。36歳まで世界と戦い続けたランナーの言葉は今も色あせず、後輩たちを励ます道しるべになっている。陸上から何を学んだのか。21年の競技者生活を終えた朝原さんが語った。

 〈銅メダルは男子トラック種目で日本初の偉業。バトンを宙に放り投げて喜びを爆発させた。その記憶をたどるとき、少年のように目が輝く〉

 さすがに、北京の後はやり切ったと思えた。満足した。リレーの決勝当日はこれ以上味わいたくないほどに緊張し、(百、二百メートル金メダルの)ボルト選手の走りを見て絶対にかなわないとも思った。もう精いっぱいだと思えたから、自然に(引退を)考えた。

 〈中学時代はハンドボールに熱中し、高校1年で陸上に出合う。それから昨夏まで走り続け、過去に例がない長いキャリアを積むことになった。ドイツ、米国への留学、数々のけが…。さまざまな経験を通じて独特の競技観が培われた〉

 バルセロナ五輪(1992年)、シュツットガルト世界選手権(93年)に出場できない苦しい時期が続いたときに、(直後の国体で)百メートルの日本記録をマークできた。人生には逆らえない流れがあると感じている。その流れに乗るように、チャンスを逃さず競技ができた。最後の数年間はやめるにふさわしいシーズンが続き、終わるときにビッグウエーブが来た。これも自分でコントロールできない流れだった。

 〈通算4度の五輪出場は日本陸上最多タイ。世界との実力差が大きい短距離種目に挑み続けた〉

 人生の流れの中でも、アテネ五輪(2004年)は大きなピークだった。振り返ると大きい波は4年周期で訪れている。シドニー五輪(2000年)の前はけが(左足首疲労骨折)で落ち込み、何とか盛り返しアテネ五輪にたどり着いた。05年と06年はほとんど走らず、引退してもいいときだった。そこに大阪世界選手権(07年)という大きな目標が自然と現れた。

 〈10秒前後で終わってしまう百メートルのレース。スタートラインでは、無意識の状態を意図的につくり出すという。陸上と自然体で向き合ってきたように、レースでもその場の流れに身を任せる〉

 短い距離で速さを競う百メートルで、ミスは許されない。だからこそ自分をどうやってレースに持っていくかが大切になる。僕はそこを楽しんでいた。(レース後に)自分で考えてやってきたことが正しかったと思えるとき、喜びを感じた。

あさはら・のぶはる 1972年6月、兵庫県生まれ。夢野台高、同大を経て95年に大阪ガスに入社。高校時代は走り幅跳びが専門で、3年時に全国高校総体優勝。同大3年秋の東四国国体の100メートルでマークした10秒19など計3度、日本記録を更新。五輪4度、世界選手権は6度出場。シンクロナイズドスイミングの五輪銅メダリスト・奥野史子さんと2002年に結婚、現在は一男一女の父。京都市在住。

■体と心 究極のバランス探して

200メートルで20秒81の京都学生新をマークした同大時代の朝原さん。36歳で引退するまで日本のトップ選手であり続けた(西京極陸上競技場)
200メートルで20秒81の京都学生新を
マークした同大時代の朝原さん。
36歳で引退するまで日本のトップ選手で
あり続けた(西京極陸上競技場)

 〈2000年のシドニー五輪を終えたときは28歳。競技人生の後半に入り、けがや年齢に伴う肉体の変化に直面する。アスリートの誰もが経験する衰えだが、より大きなテーマになったのはメンタル面だった〉

 学生時代やアトランタ五輪(1996年)までは、がむしゃらに頑張ればよかった。シドニー、アテネ(04年)は五輪が目標になり、モチベーション(意欲)を強く保てた。しかし五輪に3度出たことで、もう五輪だけではモチベーションは高まらなくなっていた。

 〈05年からは試合数、練習量を極端に減らし、06年の出場は4レースだけ。あえて「休養」したことが心を動かし、北京五輪への意欲につながっていく。自らの体を使った「実験」だった〉

 引退後はスポーツ振興にかかわりたいという考えがあって、06年に大学院(同大総合政策科学研究科)に入学した。大学院に通いながら、陸上の何を楽しいと感じているのかを探してみた。でも、何も満足できなかった。

 そのころは北京五輪(08年)なんて全く興味なかったが、地元・大阪で開かれる世界選手権が目の前にあった。最後の賭けだと思い、大阪で引退するんだと覚悟が決まった。体に残っている力を世界レベルに戻したいと思うと、モチベーションがわいてきた。

 大阪世界選手権は快感だった。気持ちも体力も完全に落ちている状態から、長い時間をかけて立て直すという作業を自分でやり遂げたから。もし(休養した)06年のシーズンがなかったら、大阪へ力が向かわなかったと思う。

 〈仮説を立て、自らの体で実験し、納得できる事実を積み上げていく。体と心の究極のバランスを探して。研究者と職人を合わせたような作業が続いた〉 気持ちがついて来ないときは体も動かず、すごく苦しい。大切なのはモチベーション。30歳を過ぎると大きく気持ちが高まることはないので、目標を見つけるのは苦しい作業だった。でも、僕が大阪を目指したように、見つかってしまえば楽しくなる。今までの経験を生かせることがたくさんある。

 〈ただ速く走ることだけを追求した21年間。数え切れない実験を繰り返し、求め続けた答えは見つかったのか〉

 理想の走りをつかむなんてあり得ない、という結論に至った。ずっと理想を求めてきたが、実は理想形というものはないと今は思っている。年を追うごとに自分の体は変化していくし、感覚も昔のままではない。理想自体が常に変わり続けていた。だから届かなかった。

◇五輪、世界選手権での成績◇

■受け継がれた独自スタイル

「スポーツの楽しさを子どもに伝えたい」と話す朝原さん。引退後も精力的な活動を続ける(大阪市中央区・大阪ガス本社)
「スポーツの楽しさを子どもに伝えたい」
と話す朝原さん。
引退後も精力的な活動を続ける
(大阪市中央区・大阪ガス本社)

 〈同大時代から特定のコーチをつけない練習スタイルを貫いた。この姿勢が独特の陸上観をつくり上げた〉

 ずっと自分の感覚を大切にしてきた。それは効率の良さや近道を求めることとは違う。目標を決めて自分と向き合い、どんな練習が向いているのかを探していく。最近はそういう姿勢で臨む選手も増えてきた。高平慎士君(富士通)、塚原直貴君(同)たちは独自の感覚を持っている。

 楽しむことは集中することとつながっている。僕が考える楽しさには練習、努力、苦しさも含まれる。それらを積み重ねていくうちに、試合で「結果を出したい」という気持ちがわいてくる。そこで集中力が出る。五輪ほど「無」になれることはほかにないが、その楽しさはまさに快感。

 〈コーチとなった今。自ら道を切り開いていく若い選手たちを支えたいという〉

 この年齢まで競技を続けた人はまだ多くない。この経験を伝えるのは難しいだろうが、きっと面白い作業だと思う。僕が36歳まで走ったように、楽しくスポーツを続けることは誰にでもできる。子どもは一人では難しいかもしれないが、導いてくれる大人がいれば必ずできる。まだ現場のことは詳しく分からないので、今の子どもたちがどんな練習をして、どう感じているのかを勉強したい。

 〈陸上教室、講演、イベントなどで全国を飛び回る。精力的な活動には陸上への恩返しをしたいという思いがある〉

 僕は陸上を通して、多くのことを学んできた。最近は、負けるとへこんでしまったり、しかられただけでスポーツをやめてしまう子どももいる。でも、そこで大人がほったらかしにするのではなく、やる気を引き出す方法を考えないと。僕のころとは時代が違い、もっと大人の気配りが必要だと感じている。

 スポーツ選手は自信がなければ成り立たず、自信を得るためには成功体験や達成感が欠かせない。スポーツはそれを見つけやすく、人を育てる要素がたくさんある。今は取材を受ける機会が多く、こちらの思いを伝えるチャンスだと思っている。スポーツの素晴らしさを伝えていきたい。

 〈新たな実験は始まったばかり。「人生を百メートルにたとえると今はまだ40メートル地点」と表現する〉

 家族の存在が競技に影響したとは思わないが、子どもの顔を見てリラックスできたり、気持ちを切り替えられた。最後の数年は子どもに自分の走りを見せようと気持ちが高まった。これからも生きる目的を常に確認しながら、人生を過ごしたい。

 先日、西京極(陸上競技場)に行って、走った。急にまったく走らなくなるのも難しいから。

〈現在の活動〉今年1月に日本陸連強化委員会の男子短距離テクニカルスタッフに就任し、日本代表の合同練習に参加している。全国各地で陸上教室や講演を行うほか、2016年の夏季五輪の東京招致に向けスポーツ界の代表としても発言している。同大大学院に在籍し、同大スポーツ健康科学部のアドバイザーも務める。勤務先の大阪ガスでは人事部に所属、同社陸上部コーチ。

(2009年3月3、4、5日付け紙面から)