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びわこ成蹊スポーツ大のサッカー部・松田保総監督の選手育成

■世界に挑む選手育成

フットサルの授業で学生に混じりプレーした松田教授。試合後はサッカーの公式戦同様、握手で締めくくった(大津市北比良・びわこ成蹊スポーツ大学)
フットサルの授業で学生に混じりプレーした松田教授。
試合後はサッカーの公式戦同様、握手で締めくくった
(大津市北比良・びわこ成蹊スポーツ大学)

 フットサルの授業は、学生の英語スピーチで始まった。「サッカーでは共通語。指導者には必須ですから」。理詰めの指導を感じさせる静かな語り口。幾多の名選手を育てた鬼監督の印象はない。いわゆる体育の先生っぽくないですね。失礼と思いつつそう告げると、「よく美術の先生、とかね」。

 高校の保健体育教師として33年、大学の助教授、教授になり7年。通算の教員歴とサッカー部監督歴は、40年目を迎えた。

 彦根東高校ではアメリカンフットボール部。金沢大学でサッカーに打ち込み、甲南高校に赴任した教員1年目から、サッカー部の指導を任された。青年監督への期待は大きく、2年目には「近代日本サッカーの父」デットマール・クラマーのコーチングスクールに、湖国から初めて通った。京都や大阪の強豪校にも胸を借り、山城高の森貞男、大阪商業大の上田亮三郎ら名将の指導法を学んだ。

■サッカー黄金世代を一貫指導

 目指したのは「相手の良さを消す守備重視のサッカー」。選手集めができない公立高として現実的な選択だ。結果は出た。1982年の全国高校選手権。守山高で望月聡、美濃部直彦ら後のJリーガーを擁し、湖国初の4強入り。翌年、日本代表DFとなる井原正巳が入学した。「サッカーはハートでするもの」。高校3年間で重視したミーティングで繰り返した教えを、アジア屈指のリベロとして体現し続けた選手と言える。

 発足間もないJリーグで活躍する選手を育て、公立高校でコンスタントに実績を残す指導者に、日本サッカー協会は目を付けた。「ユースの監督をしてほしい」。93年。協会強化部にいた田嶋幸三(現協会専務理事)からの要請だった。今も日本サッカー史に輝く3年が、幕を開けた。

 15歳以下日本代表(U-15)からU-17まで、監督として一貫指導したのは小野伸二(独ボーフム)、稲本潤一(仏レンヌ)、高原直泰(J1浦和)ら、79年生まれの「黄金世代」だ。田嶋との強化構想は一致していた。「海外で刺激を受け、国際経験を積ませたい」。米国、中国、イタリア。1ドル80円台の円高も追い風になり、海外遠征は12カ国にも上った。ここでも重視したのはミーティング。サッカー選手の成長で一番大事とされる時期、後のフル代表を担う中高生たちは、松田の言葉をノートにとるのが日課だった。

 「ユースでは積極的な守備を教えただけ。攻撃は選手のタレント性に任せていた」。控えめな回想だが、メンタルトレーニングを代表に初導入し、勝負強い試合運びは世界に通用した。94年にカタールで開催されたU-16アジアユース選手権。オマーンとの準決勝、カタールとの決勝は、共に延長Vゴール勝ちで頂点に立った。

サッカー部の総監督として、220人もの部員を率いる
サッカー部の総監督として、220人もの部員を率いる

 「自分には運があるんです」。振り返れば、黄金世代との出会いも、ユース選手権の出場資格が「78年8月1日以降の出生者」と規定されていたため。結果的に、1学年下の小野たちの招集につながった。大学でもそうだ。創部5年目にして関西学生リーグで初優勝した時も「奇跡的だった」。三つどもえの争い。得失点差で5点を取らないと優勝できない状況で、5-0で勝った。そこには当然、運を引き寄せるための努力、運を生かす戦略がある。

 220人もの部員がいる大学では、8チームを編成し、関西学生から社会人まで、各リーグで戦う選手を総監督として束ねる。「55歳で大学に来て、定年までの15年で何ができるか。自分なりのロードマップを持っている」。大学日本一、キッズからの一貫指導、文化の側面からスポーツを生活に根付かせること。そして、滋賀にもJリーグのチームを…。やるべきことは多い。サッカーの指導に打ち込み、まだ40年、だ。

(2009年8月8日付け紙面から)