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(13)スポーツ選手の品位

2010年02月20日

■スポーツ選手の品位

 2010年2月4日、日本相撲協会に横綱の朝青龍が引退届けを提出し、即日、受理された。「横綱の品位にふさわしくないさまざまな言動」が問題になり、協会を追われる形での引退届けだった。

 バンクーバー冬季五輪のスキー・ハーフパイプ日本代表、国母和宏選手が、同じ月の12日(日本時間13日)、批判をあびた「腰パン」姿の服装の乱れについて、日本選手団の橋本聖子団長が同席して、謝罪会見を行った。国母選手は、12日夜の開会式への参加を監督、コーチともども自粛、競技には出場した。

 「スポーツの品位」とは、「スポーツ選手のあるべき姿」とは、を考えさせられる出来事が続いた。スポーツは本来、だれに強制されることなく、「好き」でするものである。国家の威信を高めるために戦ったかつての「ステートアマ」は、スポーツ本来の姿ではない。個人が好きでしているだけなら、「何をしてもいいのか」というと、もちろんそうではない。

 スポーツは、すでに社会秩序の中の一つの文化として、みんなが認めている。それ以上に、あこがれの的、目標になったり、多くの人に感動や勇気、癒しを与える。一流のプロなら、その対価として、名声や高額の収入を得られる。

■個性と勝手は違う

 これだけの社会性を持つと、「個性(自由)」と「勝手」を厳格に区分けしなければならない。まして、横綱、五輪選手となれば、「好きでやっているから」だけでは通用しない。大相撲は本来、実力最高位は大関であった。横綱は別格の称号と考えられる。だからこそ、模範となる「品格」が求められて当然だが、一人の人間としてみれば、まだ20歳台の若者なのだ。少々のことなら、大目に見るとしても、度を超しては横綱の資格はない。大関以下は、成績次第で降格があるが、横綱は、降格出直しはできない厳しさがある。

 五輪の選手派遣費は国民の税金も使われているのだから、「公人」という見方がある。といっても、「国家のために」だけでは、スポーツ本来の姿をゆがめてしまう危険性がある。「スポーツ選手らしく振る舞う」というのは、結構難しいのだ。20歳そこそこの国母選手には、高度な技を決めるより、もっと難しいことだったかもしれない。

■青少年の健全育成

 大相撲を含めて、どんなスポーツであっても、▽競技会で競う他の選手への「尊敬」の気持ち▽ファンをはじめ、周囲の人たちへの「感謝」の気持ち▽ベストを尽くす選手としての「礼儀」はどうしても学んでもらわないといけない。いわゆる「スポーツマンシップ」「フェアプレー」ということである。スポーツに対して、さまざまな形で税金を使うのは、「青少年の健全育成」にスポーツが寄与すると言う価値観からであり、単に、選手の経済的負担を軽くするためではない。税金を個人の趣味、楽しみに投入できるわけがない。

■競技団体の役割「強化、普及」それに「教育」

 スポーツの世界でも、世代間の価値観の違いはある。五輪代表が抱負を聞かれて「楽しんできます」と答えると、ある年代以上の人は「五輪は遊びじゃない。代表としての責任を考えろ」と怒る。表彰式ではしゃいだり、大会開会式の入場行進で整列せずに歩いたり、選手がカメラを持っていたり。スポーツの風景も時代とともに変化する。

 スポーツの競技団体の役割は、かつて、「ルールの統一」と「アマチュアであることの認定」が2本柱だった。五輪がプロ、アマの区別を無くしたので、アマチュアの認定は、ほとんど必要としなくなった。また、競技団体の仕事は「強化」と「普及」が基本である。今回の朝青龍、国母選手の問題を考えると、それに「教育」を加えなくてはならないだろう。教育は、選手、あるいは役員、指導者への教育と同時に、競技団体が自ら勉強することだ。「スポーツ選手はどうあるべきか」を、「言動」「服装」さまざまな切り口でもっと研究し、広く問いかけるべきだ。

■スポーツの魅力、選手の魅力

 近年、企業のスポーツ離れが続く。表向きは企業の経済的な事情とされているが、実は、「スポーツに魅力がなくなってきた」と見られているなら、ことは簡単ではない。

 選手の魅力はどうだろう。国母選手のファッションが似合っているのか、若者の普通の姿なのかは分からない。実は、今回の騒動で、以前にテレビドラマで見た織田信長を思い出した。普段は身分にふさわしくない無頼の服装で、重臣たちが困り切っている。ところが、ある公式の場に、信長が正装で現れる。別人のような品格にあふれた立ち居振る舞いで、周囲を圧倒する。日頃、腰パンの国母選手が、ビシッと決めた正装で五輪選手団に合流したら、どんなに格好良かったか。それで、「自分流を曲げた」ことにはならないのだが。