京都新聞社TOP

(23)日本サッカーの父、デットマール・クラマー氏

2012年04月16日

 日本の男子サッカーが2012年3月14日、アジア最終に勝ってロンドン五輪の出場を決めた。五輪出場は1996年のアトランタ以来、シドニー、アテネ、北京、ロンドンと5大会連続となった。今や、日本のサッカーは、「五輪出場が当たり前」のようになったが、過去には長い長いトンネルの時代があった。

 私は、1979(昭和54)年にサッカー担当記者になり、10年以上にわたって取材を続けた。国際的には低迷の時代だったのだ。1968(昭和43)年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得したが、以後は実に28年間も五輪に出場できなかった。ミュンヘン、モントリオール、モスクワ(日本は出場権を得た競技も不出場)、ロサンゼルス、ソウル、バルセロナの7大会は、まさに、指をくわえて見ているしかなかったのだ。

 サッカーに限らず、日本の多くの競技は1964(昭和39)年の東京五輪に向けた強化でレベルを上げた。日本サッカー協会は1960年にドイツ人コーチのデットマール・クラマー氏(1925年~)を招いて、強化をゆだねた。クラマー氏の指導は、つきつめると「ボールを正確に止めて蹴る」ということだった。日本代表を相手に、子どもに教えるようなことをするという不満、さらには批判もささやかれたという。しかし、クラマー氏は、決して信念を曲げることはなかった。いうまでもなく、国際レベルの技術、戦術に触れたことはあっただろうが、何をするにしても、ボールを思ったタイミングで、思った所に誤差なく蹴ることができなければ、どうしようもないのである。

 東京五輪で、日本はベスト8をつかみとった。その次のメキシコ五輪。日本は3位決定戦でメキシコを2─0で破り、銅メダルに輝く。チームはフェアプレー賞に輝き、クラマー氏が見出した釜本邦茂氏が得点王を獲得した。クラマー氏はベンチではなく、スタンドから日本の奮戦を喜んだ。

 それから、28年間の低迷が始まる。日本のサッカーを最前線で見続けてきた京都のあるサッカー関係者は、クラマー氏の指導を遠ざけたこと、釜本氏が病気でしばらくプレーできなかったことが災いしたと振り返る。「日本代表の指導を日本人の手で」という大義名分を振りかざした「勢力」があったというのだ。はたして、「日本サッカーの父」クラマー氏はどのような気持ちで退いたのか。釜本氏は、見事な節制と驚異的な回復力で、ヤンマーの選手として日本リーグに復帰するが、すでに日本のサッカー自体が「違う方向」に迷い込んでいた。

 メキシコ五輪の選手たちは、身分はアマチュアでも、気持ちや態度はプロだったのだろう。クラマー氏の教えがまだ生きていたはずだ。1993年、日本のサッカーは強化の切り札ともいうべきプロ化に踏み切り、Jリーグの時代を迎えた。そして、96年のアトランタで五輪の舞台に復帰した。次は、メキシコ五輪を上回る銅メダル以上のメダルを獲得して、クラマー氏に恩返しする番だろう。

 クラマー氏は、サッカーの技術だけでなく、日本にいくつかの置き土産を残した。日本リーグという大会形式の創設もその一つ。東京五輪の次の年に、日本サッカーリーグが発足した。バレーボール、バスケットボール、さらにはハンドボールなどが次々に日本リーグを組織し、スポーツの普及、強化に役立てた。また、その当時から、芝生グラウンドを多くつくることや、国際試合の経験を積むことも提唱していた。心に響く言葉も多く「サッカーは子どもを大人にし、大人を紳士にする」と語りかけた。

 日本のサッカーは、五輪どころかW杯の出場も「当たり前」のようになってきた。しかし、スポーツの強化は一朝一夕にできないが、一つ方向を間違うと弱くなるのは一瞬の出来事─ということを肝に銘じてほしいのである。