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(28)「スポーツの歴史─9月編」

2012年08月27日

 9月といえば、国体夏季大会の月だったが、2006年の兵庫国体から夏と秋の大会が一本化された。今年、平成24年は第67回国体が岐阜県で開かれる。テーマは「ぎふ清流国体」。9月29日から10月9日までだが、会期に先立って9月13日から17日まで、水泳競技のみが行われる。
 9月のスポーツの歴史は、特に野球界でさまざまな出来事があった。(参考文献は、「スポーツできごと一日一話」(大修館)です)


○3日(1977年) プロ野球・巨人の王貞治選手が通算756号本塁打を放つ。
 後楽園球場の対ヤクルト戦。鈴木投手からこの年のシーズン40号ホームランを右翼席に放った。通算756号。米大リーグのハンク・アーロン選手が持っていた通算755本を抜いて、世界最多記録となった。王選手の第1号本塁打は1959(昭和34年)4月26日、国鉄・村田投手から打った。世界最高は、第1号から19年目の偉業となった。王選手は2日後、国民栄誉賞第1号を受賞した。

○4日(1982年) 国際陸上競技連盟が、総会で事実上の賞金付き大会を承認した。
 総会はアテネで開かれ、有名選手に非公式に支払われていた競技会への出場報酬を条件付きながら公認した。選手は、事実上の「プロ」活動を行えることになった。前年の特別総会では、広告出演料を認めていた。
 選手が受け取るべき出場報酬、広告出演料は、新設された「競技者基金」にいったん振り込まれ、最終的に選手が受け取れるようにした。実際には、選手はトレーニングや大会参加などの経費はすぐに使うことができ、それ以外の金額は、選手引退時に受け取れる、とした。従来のアマチュアスポーツが、はっきりとプロ化の方向に歩みだした。
 日本でサッカーがアマチュアの日本リーグからプロのJリーグに移行したのは1993年。国際陸連の“プロ容認”から11年後のことだった。

 
○5日(1972年) ミュンヘン五輪の選手村をアラブ・ゲリラが襲撃、選手、コーチ、警官隊、テロリストら計18人が死亡した。
 大会は8月26日に開幕していた。終盤を迎えたこの日、午前4時半ごろ、パレスチナ解放機構の「黒い9月」派武装テロリスト8人がイスラエル選手団宿舎を襲撃。2人を射殺、9人を人質にした。テロリストは人質を連れて3機のヘリコプターで空軍飛行場に移動。国外脱出を試みたところで、西ドイツ警官隊と銃撃戦になり、人質全員、テロリスト5人、警官、パイロット各1人が死亡。テロリスト3人が逮捕された。
 事件の翌日の6日、五輪スタジアムで追悼式が行われ、大会は1日遅らせて続行した。ミュンヘン五輪以降の五輪は、平和の祭典でありながら、警備体制がより厳重になった。

○7日(1892年) ボクシングの最初の世界タイトル・マッチが行われた。
 この年は、日本でいえば明治25年。当時のボクシングは、素手で行われる懸賞ボクシングだった。西部劇の映画でそういうシーンを見た記憶がある。最初の世界タイトル・マッチとされるのは、現在のように「グローブ」をつけて、試合は3分、休み1分、KOは10秒で行われた。
 試合は、34歳のサリバン(体重約96キロ)と26歳のコーベット(体重約80キロ)が対戦。コーベットが、実に21ラウンド戦ってKO勝ちしている。コーベットは、銀行員で、フットワークを生かしてカウンター・ブローを決め、相手を徐々に弱らせる「科学的」なボクシンング。対して、敗れたサリバンは、素手で戦う時代の最後のチャンピオンだった。ボクシングの近代化の試合でもあったといえそうだ。

○11日(1937年) 後楽園球場が完成した。
 7球団による職業野球連盟(プロ野球)は1936年に結成されたが、専用球場はなかった。東京では、早稲田大学球場を借りるといった状況だった。後楽園球場は、ヤンキース・スタジアムを模範にし、収容人数は当初7万5000人の予定だったが、鉄材の不足で3万人となった。
 最初の試合はオールスター紅白試合。1回、水原選手(巨人)が若林投手(阪神)から左翼席に本塁打を放ち、後楽園球場の第1号アーチになった。

○16日(1973年) 全日本ラグビーが初のイギリス、フランス遠征。
 全日本ラグビー・チーム(大西団長)がイギリスの招きで出発した。44日間に、2つのテストマッチ(国の代表同士の試合)を含む11試合を行い、全日本は2勝9敗だった。
 日本では2019年にワールドカップの開催が決定しており、世界で戦える強化が課題になっている。ちなみに、2015年ワールドカップはイングランドで行われる。

○20日(1925年) 東京六大学野球の最初のリーグ戦が開幕。
 リーグ戦最初の試合は明治大と立教大の対戦だった。人気カードの早稲田大と慶応大の「早慶戦」は10月19日に復活第1戦として行われた。
 早慶戦は、1903年(明治36年)に始まったが、応援が過熱し、3年後に慶応義塾が試合中止を命令、東京六大学リーグ発足までの19年間は行われなかった。
 東京の大学野球界は、早大、慶大に加えて、1910年には明治大が創部。1917年には、法政大が加盟して4校に。1922年に立教大が正式加盟、1925年に東京帝国大が加わり、東京六大学野球連盟が結成された。大学野球が大いに盛り上がることになった。
 第1回リーグは、早稲田大が10勝ち1敗で優勝。早慶戦は早大の2連勝だった。

○25日(1936年) 沢村栄治投手が、日本プロ野球史上初のノーヒット・ノーランを達成。
 甲子園球場で、巨人・沢村、阪神・若林の両エースが投げ合った。沢村投手の豪速球と外角低めに落ちる変化球がさえ、ショートゴロ失と4つの四球による走者を出したが、無安打無得点試合を成し遂げた。若林投手も好投、試合は1─0だった。
 沢村投手は、この後もノーヒット・ノーランを2回達成したが、戦死。京都商業高校(現京都学園高校)出身で、同高校に銅像が建てられている。