京都新聞社TOP

(36)「スポーツの歴史─2月編」

2013年01月31日

2月のスポーツ

 大相撲の横綱審議委員会ができたのが2月。当初、推挙した横綱の成績が振るわず、後に大関での2場所連続優勝など内規を決めたという。近年のスポーツは、急速にプロ化が進み、すでにオリンピックもプロ、アマの垣根を取り払って、真の実力ナンバー1を競うようになっている。「がんばれ!ニッポン!」キャンペーンから30年余りで、国内のいろいろな競技のトップアスリートたちの立場はプロへプロへと、大きな変化をとげた。札幌五輪ジャンプの「日の丸飛行隊」は、まだまだアマチュア時代の快挙だった。

○2日(1805年) オランダで女性のスケート競技を開催
 スケートで記録に残る最古のレースは、1763年にイギリス東部のウィズビーチ─ウィトルシー間15マイルで行われた長距離レースという。女性の競技会としては、1805年にオランダ北東部の町、レーウワールデンで130人が参加して行われた。競技方法などは不明だが、優勝はピータースと記されている。
 中世以降のスケートの中心地は、オランダ最北部、イギリス東部だったようだ。

○6日(1972年) 札幌五輪のジャンプで日本勢が金・銀・銅メダル独占
 札幌冬季五輪の第4日、宮の森ジャンプ場は2万5000人の観客が詰めかけていた。日本は70メートル級ジャンプ(現ノーマルヒル)に4人が出場、笠谷幸生が金、金野昭次が銀、青地清二が銅メダルに輝いた。
 下馬評では、ノルウェーのモルクと笠谷の一騎打ちとみられていた。しかし、日本勢の最初のジャンパー、金野が1回目に82・5メートルの好記録をたたきだし、波に乗った。日本勢最後の笠谷は、それを上回る84メートルの大ジャンプを見せた。3人は「日の丸飛行隊」と呼ばれた。

○9日(1936年) 日本のプロ野球初の試合が名古屋で行われた
 職業野球団といわれた東京巨人 対 名古屋金鯱の3連戦の1戦目が午後2時から、名古屋の鳴海球場で行われた。結果は、金鯱が10─3で勝った。ちなみに第2、第3戦は、巨人が8─3、4─2で連勝している。試合は、巨人の第2回アメリカ遠征の壮行試合として行われた。
 初戦の前日、東京・丸の内の日本工業クラブで日本職業野球連盟の総会が開かれた。連盟初のリーグ戦は4月29日、甲子園球場で開かれた。

○18日(1978年) 初のトライアスロン大会が開かれた
 1977年10月、ハワイのホノルルで開かれたパーティーの席上、アメリカ海軍司令官のJ・コリンズが、毎年ハワイで開かれていた3大スポーツ・イベントのスイム・レース(ワイキキ、2・4マイル)、バイク(オアフ島、112マイル)、マラソン(ホノルル、26・219マイル)の3つを1日でやってみたらどうか、と提案した。
 翌年、15人が参加して第1回大会が開かれ、予想を上回る12人が完走した。ホノルル駐在の海軍軍人、G・ハスラーが11時間46分58秒で優勝した。翌年の大会では、出場15人の中に早くも女性がいた。80年の第3回大会は、参加者も108人と急増した。

○23日(1949年) 日本野球のコミッショナー制が発足
 終戦からこの年まで、日本のプロ野球は1リーグ制。2大リーグ制などを提唱した正力松太郎が、日本野球連盟のコミッショナーに就任した。しかし、2リーグ制をめぐって連盟は解体、コミッショナー制度は1951年の機構整備で実質的なものとなった。

○26日(1979年) 日本体育協会が「がんばれニッポン」キャンペーンを発表
 日本体協は、約3億円の選手強化費を調達するため、アマチュア選手をCMに使う「がんばれ!ニッポン!」キャンペーンの事業計画を発表した。アマチュア規定に抵触する、という懸念があったが、アマチュア選手の映像(肖像)使用について▽品位をそこなわない▽選手が商品を明示したり、CMメッセージを述べない▽選手の写真、サインの商品ブランド名としての使用は原則としてできない─などの基本方針が強調された。

○27日(1950年)日本相撲協会が横綱審議委員会の設置を決定
 大相撲の横綱は従来、吉田司家から免許を受ける相撲家元制度で成立していた。しかし、吉田司家が1950年1月に横綱免許権を日本相撲協会に移譲。協会では、横綱推挙を公明正大にするため、学識経験者による「横綱審議委員会」の設置を決めた。
 最初の推挙は第41代横綱の千代の山だった。1958年には、横綱推挙の内規を決め、大関の地位で2場所連続優勝、連続優勝に準ずる成績などとした。内規による推挙の第1号は、第45代横綱の若乃花だった。