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立命館大航空部創部80周年式典と立命館大―同志社大定期戦

2010年10月21日

50数人が集い、盛り上がる

 昭和6年6月に発足した立命館航空部は創部80周年を迎えました。8月に、京都市内の京阪三条のいろは旅館にて記念式典を行ないました。学生部の種子田部長を迎え、遠くは北海道、東北、九州からも参加し50数名が集いました。今までに全国大会で優勝した3名を紹介、それぞれスピーチもありました。我が大学は、関西でトップの成績ですが、最近は慶応が優勝をかさねており、そろそろ来年度には優勝を!との熱い思いと期待感をみんなで共有しました。

80周年式典のあいさつ
80周年式典のあいさつ

 また、元ANAパイロットで23,000時間を飛ばれた関矢さんのTV放送も紹介されました。先輩の偉業や懐かしい話で、宴会は大いに盛り上がりました。

元ANA関矢さんが出演したTV画面
元ANA関矢さんが出演したTV画面

グライダーの歴史を振り返る

 はたしてグライダーはスポーツであるか? という疑問もありますが、戦前のベルリンオリンピックでは参考種目として競技された歴史があります。そして、戦争で幻となった1940年東京オリンピックでは正式種目として競技されることになっていました。また、昭和45年ごろまでは、当時の文部省主催の指導者講習会が毎年開かれ、全国の主な学生が参加し技量向上に努力していました。

参加者の顔ぶれ
参加者の顔ぶれ

 そもそも、大学の航空部は昭和5年に日本学生航空連盟として、法政大学の中野勝義氏(昭和27年にANAの前身である日本ヘリコプターも創立)ら朝日新聞航空部員が中心になり誕生しました。関西では、京大、関学などで発足し、立命は翌年に参加しています。

 当初はエンジンの付いた飛行機が中心で、伊丹、八尾などで訓練していたようです。昭和10年にグライダー部が設置され、昭和11年には第一回全日本グライダー大会(大阪唐津飛行場)が開催されました。その後は、戦前の航空機奨励政策にものり、多くの飛行場が作られ、生駒山頂からグライダーで飛んだり、また生駒山脈上空にて連続33時間滞空という記録も出ました。

 ちなみに、このグライダーの黎明期については、ロンドン飛行の神風号と天才バイオリスト諏訪根自子の活躍を書いた深田祐介氏の小説「美貌なれ昭和」にて詳しく紹介されています。大東亜戦争に敗れ、GHQによりすべての飛行が禁止されたのですが、昭和27年に航空禁止が解かれ、グライダー飛行も許可されました。戦後、翼をもがれた若人が歓喜したと聞いています。

立命館大―同志社大定期戦

 立同対抗グライダー競技会は毎年開催されています。今年は9月に福井空港を会場に、航空機による曳航方式で行なわれました。今年は同志社が新鋭のグライダーを導入し、立命の競技機と競い合った結果、連日の逆転また逆転と内容の濃い競技会になりました。残念ながら立命は、最終フライトで逆転されて負けましたが、これまでの通算成績は立命の19勝11敗となっています。

試合風景
試合風景

 競技内容は、自動車のラリー競技に似ています。当日の天候により、三角飛行コースが定められ、サーマルで(800m位の高度まで)上昇してスタート(飛行場上空)を切り、決められた地点をサーマルをつかみながら周回して、また飛行場まで帰ります。早く帰ってきた者が勝者となり1000点を獲得します。それより遅いフライトは減点されて、得点となります。選手の毎日のフライトでの獲得点数を合計して総合優勝と個人優勝を決めています。

表彰式風景
表彰式風景

着陸前の福井空港滑走路
着陸前の福井空港滑走路

飛行記録にも新しい風

 選手は飛行前に宣言版の前で写真を撮り、そして高度を記録するための自記高度計を動かして宣言したコースを飛び、決められた地点の写真を撮って実際に飛んだかを判定します。しかし、現在は普通の競技会ですと、この方法はとりません。全グライダーが搭載したGPSを使って飛行を記録し、フライト後にPCにダウンロードして、そのフライトを解析、記録します。従って、どの場所で何時何分に、高度何メートルで飛んだかが確実に分かるようになっています。

 面白いのは、先日、岡山の邑久滑空場でi phone を使い、飛行を記録して着陸後にPCにつないで、Google Earth の地図上に飛行航跡が見られたことです。さすがアップル! 進んでいますね。

 この邑久滑空場は吉井川河川敷きにあり、関西エアロスポーツクラブの練習場です。隔週の土、日曜に愛好者らがグライダーフライトを楽しんでおり、さまざまな種類のグライダーを見られます。通年非常によい天候にめぐまれ、多くの上昇気流が発生します。次回「グライダー談義」では、ここでの活動を紹介しましょう。