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日本サッカーの父、死去(連載第323回)

平成27年9月19日

※大会最終日の翌日はVIPの帰国ラッシュが続く(2002年W杯日韓大会) 成田空港にて
※大会最終日の翌日はVIPの帰国ラッシュが続く(2002年W杯日韓大会) 成田空港にて

デットマール・クラマーさん亡くなる

 日本サッカー界が今日のような近代サッカーが出来るようになったきっかけは彼の存在をなくては語れない。今日訃報が届いた。

 当時の日本サッカーは現在のアジアのような単純で走るだけのサッカーだった。チームとしてのポテンシャルはなく個々の技術に頼るサッカーだった。

 それをドイツ式トレーニングと日本式根性を叩き込んだのがコーチとしてやって来たクラマーさんだった。1960年東京オリンピックを控えた年に来日している。そしてメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した日本チームに涙を流した。サッカーは基本が大事。日本には大和魂があるじゃないか、などの言葉は有名だ。

 私が少年のころすでにクラマーさんのことは知っていた。それはJFA元会長の両氏、長沼さんや岡野さんの言葉からである。彼の教えは両氏を通して日本の隅々にまで伝わっている。それは彼のトレーニング手法でもある。

 私が塔南高校時代、巡回コーチイングで岡野元会長が来校された。岡野さんはサッカーボールを蹴るトレーニングではなく、ハンドボールのように手を使ったトレーニングをしていった。今から46年前のことを昨日のごとく思い出す。

 そして山城高校出身の釜本さんや静岡出身の杉山さん、日本代表だった八重樫さんや宮本さんといったメンバーに受け継がれて今日まで脈々と流れているのである。私の高校時代から一挙に日本代表まで混同してしまった。雲泥の差だけど底辺に流れているクラマー式精神は受け継いでいるつもりだ。

 時は流れて2002年W杯日韓大会の最終日、成田空港でクラマーさんを紹介されたとき、私は固まってしまって握手はしたものの何の言葉もかけることが出来なかった。この大会で出会った数々のVIP、名選手に対してあいさつ程度ではあるが言葉を交わすことが日常だったけれど。 最終日に出会ったクラマーさんは思っていた以上に体が小さく私の会釈に対してニッコリとうなずくだけだった。今も成田空港の出発ロビーの片隅のベンチで佇む彼の姿を思い浮かべる。彼を一言で表現すると彼はインドの父ガンジーのような姿だった。物静かで謙虚でそれでいて包み込むような温かさがあるのである。

 時が流れた。今は静かにクラマーさんの冥福を祈りたい。90歳だった。