Kyoto Shimbun 2002.10.11. News  

 四十三歳の若さにして企業研究者−「異例」づくめの中でノーベル化学賞が決まった田中耕一さん。不況から新たな技術立国を目指す日本に夢を与える快挙となった。周りから「変人」と言われるほどの独創的発想はどこから生まれたのか。田中さんをはぐくんだ企業風土や京都のベンチャー精神も関係しているのか。田中さんを囲み、日高敏隆・総合地球環境学研究所長と、十数年来の交流がある山岡亮平・京都工芸繊維大教授に話し合ってもらった。
 (司会は齊藤修京都新聞社編集局長)
日高敏隆氏
(総合地球環境学研究所長)
田中耕一氏
(島津製作所ライフサイエンス
ビジネスユニット主任)
山岡亮平氏
(京都工芸繊維大教授)

 −戦後生まれ初のノーベル賞で、企業人初の受賞。率直な感想は。

 田中 最初、大仕掛けの「どっきりカメラ」かなって思いました。ストックホルムから電話を受けて、ノーベル何とかと言ってるな、と。残念ながらそのとき、電話の雑音が大きかったんです。よく分からないまま電話を切って、十五分後くらいから会社の電話がバンバン鳴りだし、同僚が走るように来て「おめでとう」と言い始めたんで、何かすごい賞を受けたんだな、という気がしてきた。でも、まだ実感がわきません。  企業人で初ということですが、率直に言って、今まで企業の人がもらってこなかったのが、不思議なくらいです。

 山岡 田中君とは毎年、冬になべを囲んでいたんだけれど、昨晩テレビをつけると、見慣れた田中君の顔があり、ノーベル賞というのでびっくりした。でもゆっくり考えてみると、田中君が取ってもおかしくないと思い出しました。

 日高 四十三歳の若さは異例というけど、異例扱いしなくてもいいんじゃないかな。戦後生まれ初の受賞ですが、これからはどんどんそうなっていくでしょう。

 −実際に発表されたのは二十代の時ですね。

 田中 二十五、六歳のときに、当時の中央研究所で吉田佳一さん(出向中)、吉田多見男さん(現・島津製作所基盤技術研究所長)らと研究を始めて、発表したのは八七年、二十八歳のときです。

 −大学時の専攻(電気工学)とは違う分野の研究で、とまどいはなかったですか。

 田中 電気関係をやる機会はあったんですが、私よりもっと優秀な電気の研究者がおりましたから、私は下働きで、いろいろと実験をやっていました。そうするうちに、レーザーでの表面分析に、幸運にも失敗してしまったんですね。失敗していなかったら、こういうことにはならなかったと思います。その後、初めて生体関連物質を分析することになったのですが、そこで分析するのは化学の話だったから、まったくの専門外でした。でも、見よう見まねでやっているうちに、どんどん実験が面白くなってきた。  私はどちらかというと大学で理論とか数式をやっているのは、性に合わなかった。それが実験になると、何かすればすぐに答えが出る。よきにつけ悪しきにつけ、そういうことをやっている環境に置かせてもらったので、仕事が面白いというのが当然になってきたわけです。ですから、自分で何か進んでやるということは別に苦労と感じませんでした。

 −研究は毎日何時ごろまで。

 田中 ふつう七時か八時ごろまでだったと思います。大学の常識とは違い、企業では長く働くのはいけないということがあります。それに私自身、インスピレーションを得るためには、あまりにも長い時間仕事をしていると、集中力が切れてしまうんですね。何か新しいことをやるには長い時間やるのはダメだと、何らかの形で気づいたんだと思います。

 山岡 MALDI(マトリックス支援レーザー脱離イオン化法)によるたんぱく質分析は、八七年に田中君が発表したときよりもどんどん高度になっていますが、単独でイオン化することに成功した彼の最初の研究があってこそ。一休さんのトラの話と同じで、追い出されたら捕まえることができるのにな、という話です。それを田中君が追い出してくれた。

 田中 私とみんなでです。