京都大好きトーク!

第四十七回 明治150年。日本の「こころ」を世界に発信し、平和に貢献!
門川大作京都市長 × 山折哲雄さん(宗教学者、国際日本文化研究センター名誉教授) × 宮城泰年さん(聖護院門跡門主)
門川大作京都市長さん・山折哲雄さん・宮城泰年さん 対談写真
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二条城・清流園香雲亭(京都市中京区)での座談会に出席した皆さん

<プロフィール>
山折哲雄(やまおり てつお)/1931年米・サンフランシスコ生まれ。東北大大学院博士課程修了。大学でインド哲学を専攻し、仏教をはじめ宗教学者としての道を歩み始める。国立歴史民俗博物館教授、京都造形芸術大大学院長、国際日本文化研究センター所長などを歴任。2010年南方熊楠賞受賞。専門は宗教思想史。著書に「死の民俗学」「親鸞をよむ」など。
宮城泰年(みやぎ たいねん)/1931年京都市生まれ。龍谷大文学部卒業後、新聞記者を経て聖護院に勤務。執事長、宗務総長などを歴任し、2007年に聖護院52世門主、本山修験宗4代管長に就任。京都仏教会常務理事、日本宗教者平和協議会代表委員、龍谷大客員教授なども務める。ベトナムやカンボジアなど、アジアの仏教者との親交も深い。著書に「動じない心」など。

この国の宗教のかたち
山折哲雄さん門川市長 本日のゲストは宗教学者の山折哲雄さん、京都仏教会常務理事で本山修験宗の総本山・聖護院門主の宮城泰年さんです。今年は明治150年。日本が近代国家へ歩み始めるとともに、文化や宗教の在り方も大きく変わった時代といわれますが、まずは日本の文化と宗教についてお話しいただけますか。
山折さん 日本には古来、天地万物に目に見えない神々が宿るとされてきました。それが6世紀の仏教伝来で、神々と仏が共存するようになったんですね。中心には人間の死があり、麓に風葬された遺体から魂が抜けて山を上り、山頂で神になると信じられていました。仏教では魂は「西方浄土」に行くとされますが、日本では浄土は山にあるという「山中浄土観」が出てくる。国土の7割以上が山と森に覆われるこの国では、土着の神と外来の仏が山頂で合体するという「神仏習合」が自然に成立。これが日本人の信仰のベースを成してきたと思います。
宮城さん 修験道も山岳信仰が元で、先祖の魂は皆山に上り、岩や木、滝などに住まう神や、何万年も前から伝わる自然神と合体すると考えられました。一木一草に神が宿り、山を歩くことを通して神と一体化する。自然神への畏れからたたりの信仰も出てきます。仏教が入ってくると、神は仏を母体として衆生を救済するための仮の姿として現れる「権現」信仰が誕生。自然神信仰を元にした神仏習合の思想を持つ修験道では、あらゆる所に神がいると考えます。
門川 私もよく「五山の送り火は仏教行事なのになぜ『鳥居』が?」と聞かれます。また、粟田神社などのお祭りでは僧侶と神職が並び、仏事と神事が行われてからみこしが入る。不思議に思われるけど、どちらも神仏習合の姿なんですね。あるお坊さんによると「猫も杓子(しゃくし)も」の“ねこ”は禰宜(ねぎ)の子、“しゃくし”は釈迦(しゃか)の子。つまり神社の子もお寺の子も一緒だというのが語源だそうです。
山折 日本では神仏習合は当たり前のことでしたが、明治維新で激変しました。岩倉使節団は欧米で、強大な近代文明国家の精神的基軸としてキリスト教の存在を知らされます。それに代わるものとして「国家神道」ができた。このいわゆる一神教化は、文明開化の路線に合ったわけですね。私はこのたびの明治150年を単なるお祝いではなく、日本人の信仰や宗教の在り方を見つめ直す機会としなければと考えています。
宮城 明治という時代は、仏教にとって本当に厳しい時代でした。1868(明治元)年には神仏判然令(神仏分離令)が下され、日本中で廃仏毀釈(きしゃく)の嵐が起きます。かつての四条大橋は、お寺の鐘から鋳直して造られたとか。それほど社寺から仏像・仏具が放り出された。1872(明治5)年には修験宗の解散命令が出て、天保年間に17万あった寺院・布教所が激減。戦後まで聖護院は天台宗に所属させられ、1946(昭和21)年にようやく独立を果たしました。
門川 その時代、日本の貴重な仏教芸術が二束三文で欧米に流出したんですね。明治150年ということでやみくもに礼賛するのではなく、そうした歴史に学び、今を考え、未来に生かしていきたいものです。

平和を享受してきた日本 そして京都の役割
宮城泰年さん山折 私が思うに、日本には世界史上類を見ない二つの長期にわたる平和の時代、平安時代の350年と江戸時代の250年があります。これには二つの要因があって、一つは政治権力と象徴的権威の二元構造が確立していたこと。平安時代の天皇に政治権限はありませんでしたが、政権に侵されることもなかった。もう一つは神仏習合が政治に有効に働いたこと。象徴するのが正月の宮中行事です。前七日(ぜんしちにち)の節会は神職による神事。後七日(ごしちにち)は仏教僧による加持祈祷。つまり象徴天皇と神仏習合の2要素で、宗教と政治のバランスが見事に取れていたわけです。これが崩れると南北朝から戦乱の世を迎え、明治維新はその後の戦争につながった。このことからも戦後の象徴天皇の役割がいかに重要かが分かります。
門川 戦前・戦中には宗教が政治に利用され、戦後はその反省から政教が分離されました。一方で今も仏壇と神棚が両方ある家が多く、また、多様な宗教を信仰する方も神社やお地蔵さんに手を合わされる。神仏習合は日本人、京都の人々の生活の基盤でもありますね。われわれは現在「双京構想」を提言し、御所がある京都と東京の両方で都の役割を果たすことを目指しています。そしてその京都に文化庁もやってきます。
宮城 文化庁の職員も京都の空気を吸う中で、自然と「体」が出来上がっていく。「ここに来る以上は京都の文化になじんでみよう」という気構えで初めて、文化庁の存在価値が出てくると思います。
門川 それこそが私たちの願いで、実際に文化庁の京都への移転組織のトップは、長屋に住んで祭りに参加し、狂言を習っておられます。文化財担当の専門家約60人が京都に移り住まれ、伝統産業・文化に関わられる。今、人・モノ・金・情報が東京に一極集中ですから、京都から全国の地方と共に発信することが大事です。

京都のまちと皇室との関わり
門川大作京都市長門川 聖護院は、歴史的に皇室との縁も深いですね。
宮城 はい。明治まで37代の門主のうち25代を皇室からお迎えし、歴代門主は聖護院宮という宮家を持たれました。修験道の聖地・大峰山(奈良県)に宮様がお入りになる際には、御所に赴き、天皇さんの肌着を預かって山で身体健康の加持祈祷をし、また御所に持っていく。その宮様をこしに乗せた数千人に及ぶ「峰入り」の行列は壮大だったようです。ところで白河天皇も大事になさったと伝わるお地蔵さんが、京都市内には今も5千ほどもあるとか。
山折 確かに路地を歩くと、10メートルぐらいごとにお地蔵さんが祭られていますね。
宮城 京都の人は、地蔵菩薩とは言わず「お地蔵さん」。天皇陛下のことも天皇さん、お不動さん、観音さん、お薬師さんと親しみを込めて呼びますね。
門川 天皇陛下も庶民も、多様な人が小さなまちに、千年を超えて共存してきた京都ならではの文化です。

日本、そして京都が世界の平和のためにできること
山折 明治時代以降、「つながり・つなぐもの」を意味するラテン語を語源とする「レリジョン(religion、宗教)」という言葉は、日本人の伝統的な心の在り方にしっくりこなかった。日本人にとっては「宗教」であると同時に、「倫理」でもあり「美意識」でもありましたから。それで私はこれを「こころ」と言い換えようと提言しています。その日本人の心を過不足なく表す世界が和歌。そこには日本人の信仰心や神仏共存の考えが表れています。正月の「歌会始(うたかいはじめ)」は国内外への文化発信の象徴的存在ですが、あれを千年の間続けてきたのは京都。そこで京都の歌会を春と秋にしたらどうかと思うのです。歌人から僧侶、神職に普通の人々、高校生までが参加できる素朴な形で。
門川 そういう歌を含む文化が千年を超えて伝わってきたのが京都です。二条城で外国の方に「ここは城ですが平和の象徴。世界に例のない江戸時代という平和な時代が始まり、また明治という新しい時代が誕生する舞台にもなった」と言うと、本当に感動されるんです。
山折 そうでしょうね。戦国時代、信長は鉄砲を導入したが、秀吉・家康は鉄砲を捨てた。日本では刀が武士の命として尊重される伝統があり、鉄砲を簡単には受け入れなかった。世界史上、非常に珍しいことです。
門川 今世界では民族、社会体制、宗教などの違いからさまざまな対立が起こっています。世界の平和のために、京都の果たす役割は大きいですね。
宮城 今のこの美しく穏やかな京都の存在自体が平和の証し。戦火にまみれなかった縁を大事にし、発信することが大事です。こんな奇跡的なまちは他になく、宗派を超えた宗教者が集う「世界宗教者会議」もここで2回行われました。
門川 京都には宗教者連盟があり、寛容の精神で多様な宗教が連携して役割を果たしていただいている。これも京都ならでは。また、40年前に京都市は世界文化自由都市宣言を行っています。「全世界のひとびとが、人種、宗教、社会体制の相違を超えて、平和のうちに、ここに自由につどい、自由な文化交流を行う」と。これを基に国際日本文化研究センターを誘致し、世界歴史都市会議が始まりました。
宮城 千年の文化を伝え、天皇さんから庶民に至るまで、同じように「さん」付けで生きてきた京都。そこにあらゆる産業が今も備わり、家にはちまきを掲げ、「蘇民将来子孫也」の札が貼ってある。こういう歴史を大事にしていかなければと思います。
山折 私も今こそ日本の「こころ」を世界に伝えるべきだと思います。
門川 ここに伝わる「こころ」をどう生かし都市としての質を高めていくのか、生活文化から世界との交流も含め問い直さなければなりません。お話を伺い、京都が京都としてあり続ける大切さを痛感しました。これからもよろしくお願いします。


京都府神社庁長・石清水八幡宮宮司の田中恆清さんにもお話を伺いました。

京都府神社庁長・石清水八幡宮宮司 田中恆清さん  石清水八幡宮は、859(貞観元)年、南都(奈良)大安寺の僧・行教和尚が蒙(こうむ)りました豊前国(大分)宇佐宮に鎮まる八幡大神様の「男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣に基づき、洛南男山の山上に八幡三所の御神霊をお迎え申し上げたのが創建の起源とされております。
 創建以来、皇室の守護、国家鎮護の社として崇敬されてきた当宮でございますが、仏教との関わりを歴史的に鑑みますと、当初より山内には神宮寺である「護国寺」が建立され、本宮と合わせて「石清水八幡宮寺」と称されるようになりました。後にはいわゆる「男山四十八坊」と呼ばれるほど、山中には多くの宿坊が建てられ、社僧と言われる僧侶達が神仏に奉仕しながら、厳しい修行を行っていました。まさに男山は、神仏和合の霊山として信仰されてきたのであります。
 御祭神の八幡大神様は、古く奈良時代より御自らを八幡大菩薩と称され、神様でありながら、迷い苦しむ人々を救済する慈愛に満ちた仏様としても信仰されてきました。その御心は当宮の重儀である「放生会(ほうじょうえ)」と呼ばれる祭祀(さいし)に顕現しております。
 古来、日本人の心の奥深くには「神も仏も」という神仏への篤(あつ)い信仰心が根付いていました。悠久の自然の中で山川草木に神仏が宿ると信じ、祈りを捧(ささ)げながら、慎ましやかに生活をしてきた日本人の感性は、現代に生きる私達にも受け継がれていると思っております。
 近年では、勅祭石清水祭や恒例の祭典に加えて、古儀に則(のっと)り、国家安泰、世界平和を祈念する神仏和合の祭典を、由緒ある寺院の僧職の方々と共に、毎年斎行させていただいております。延暦寺や金閣寺の僧職の方々と共に神仏への祈りを捧げ、清水寺や東寺の僧職の方々との合同祭典が長く続けられてきましたのも、神仏の御加護と、この伝統ある京都の風土があってのことと考えております。
 なぜなら古社名刹(めいさつ)が数多ある京都は、神仏への祈りが常に生活と共にある屈指の宗教都市でもあり、「神も仏も」一緒に拝む日本人の心の、精神的支柱の場でもあるからです。五節句をはじめ京都に伝わる年中行事の多くは、神仏への感謝の気持ちを捧げる祭りであり、また子ども達に神仏への畏敬の念を涵養(かんよう)する教育の場としての役割もあるのだと考えています。
 この歴史ある京都の地から、受け継いできた「神も仏も」一緒に拝む日本人の祈りの心を、次世代へと護り伝えていっていただきたいと願っております。




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