木津川市山城町上狛の国史跡高麗(こま)寺跡は、JR上狛駅から府立山城郷土資料館へ向かう途中の、のどかな田園風景の中にあります。7世紀初頭にさかのぼる京都府内最古級の寺院は、なぜこの場所に創建されたのでしょうか。

高麗寺跡

 高麗寺跡の位置は、奈良盆地から南山城地域を北上する古代の主要道に近接します。さらに対岸には、木津川舟運の主要港であった泉津(上津(こうづ)遺跡)がありました。高麗寺は、古代の水陸の交通網の要所に立地していたのです。そして、南面する伽藍(がらん)は木津川を正面にしており、往来する船や対岸からの視線を強く意識していたと推測されます。

高麗寺跡航空写真(北から・木津川市教育委員会提供)奥に見えるのが木津川

 高麗寺に関連する最も古い記録は『日本書紀』の欽明天皇31(570)年条にみられます。高句麗(こうくり)から使節が来訪した際、後に高麗寺が創建される山城国相楽郡に館(むろつみ)を建設し、迎接したと記されています。この時点で相楽郡には一定数の渡来人が居住していたとする説があります。また、高麗寺の「高麗」は高句麗との関係を示すことも指摘されています。このほかに、9世紀に成立した『日本霊異記』の記事が知られ、奈良時代の高麗寺の僧、栄常が紹介されています。

 また、周辺には、上狛(かみこま)や下狛(しもこま)など、「狛」の字を含む地名が現存しますが、平安時代中期に記された『和名類聚(るいじゅう)抄』には、「大狛郷」、「下狛郷」の地名が紹介されています。「大狛郷」は、高麗寺跡の所在する「上狛」に相当するのでしょう。周囲に点在する「狛」地名は、高句麗からの渡来氏族、狛氏に由来するものとされ、高麗寺は狛氏と関連して創建されたと考えられています。

 高麗寺跡の考古学調査の契機となったのは、昭和9~10(1934~35)年に金堂基壇から金銅製装飾金具が出土したことです。郷土史家の中津川保一氏が発掘調査を実施し、塔・金堂の2つの瓦積み基壇が東西に並ぶことが明らかになるなど、多大な成果が挙げられました。そして、関係者の情熱と努力が、昭和15年の国史跡指定として結実しました。その後も発掘調査が断続的になされ、概要が明らかになっています。

塔瓦積み基壇・石敷・塔心礎発掘調査状況(北西から・木津川市教育委員会提供)

 高麗寺は当初、蘇我馬子が建立した飛鳥寺の創建瓦と同じ型を用いた瓦が使用される小規模な寺院として出発したようです。本格的な伽藍整備は白鳳(はくほう)期に開始されたようで、この際に金堂、塔、講堂、中門、南門といった主要な施設が整備されました。奈良時代の恭仁京期には、京内の主要寺院として整備維持されました。恭仁宮で調達されたものと同じ文様の瓦の出土から、当時の高麗寺の重要性が推測されます。さらに、奈良時代末から長岡京期にかけて大規模な修理事業が行われますが、その後は次第に衰退し、鎌倉時代には姿を消してしまいます。

 発掘調査から、寺域の規模は東西約190メートル、南北約180メートルで、伽藍中心部は、南門、中門、金堂が南北一直線に並ぶ特徴的な構造であることが判明しています。そして、金堂、塔、講堂の基壇外装は瓦積みで、金堂、塔基壇の周りに石敷がめぐらされていました。また、花崗岩製の塔心礎は、仏舎利を収める舎利孔が側面にうがたれる特異な構造です。塔心礎の実物は、現在、地中に埋め戻されていますが、非常に精巧な石製のレプリカが地表に設置されています。

 遺物は、飛鳥時代から奈良時代にかけての瓦類、塔相輪の擦管(さつかん)や飾金具といった金銅製品などが出土しました。ほかには風鐸(ふうたく)の鋳型が多量に出土しています。天平宝字6(762)年の『造金堂所解案』には法華寺阿弥陀浄土院金堂造営にあたって、泉狛村から鋳型料土を運んだ記事があります。高麗寺跡出土遺物との関連が想定されます。

復元整備の進む高麗寺跡金堂基壇(南西から)

 現在、高麗寺跡では、木津川市教育委員会による史跡の復元整備工事が着々と進められています。塔跡と金堂跡の瓦積み基壇は、古代瓦の質感の再現にこだわった瓦が丁寧に積み重ねられ、古代寺院の威容がしのばれます。地元の小中学生と地域住民が瓦積み作業に参加した復元整備工事は、2021年頃に完成予定です。また、出土遺物は府立山城郷土資料館に常設展示されています。高麗寺跡の現地と併せてご覧いただければ、古代の渡来人の活動や仏教文化を身近に感じられることでしょう。(文化財保護課記念物担当 古川 匠)