しょうぎめん・たかし 1967年生まれ。政治思想史。ケンブリッジ大リサーチフェローなど歴任。『ヨーロッパ政治思想の誕生』でサントリー学芸賞。他に『日本国民のための愛国の教科書』。

 今年は、日本人の国民感情が実に多様な形で表現された1年であった。ラグビー・ワールドカップで日本勢がベスト8に進出したことに多くの人々は狂喜した。一方、「あいちトリエンナーレ」における平和の少女像の展示をめぐって「国民感情を害する」という河村たかし名古屋市長のコメントが論議を呼んだ。さらに新天皇即位をめぐる一連の行事では、多くの日本人が「天皇陛下万歳」を三唱する情景がスクリーンを飾った。

 これらの例のどれをとってみてもいわゆる「愛国心」と無縁でないことは自明であろう。愛国心は、感情面に限定すれば「自国民としての誇り」であると一般に理解されている。明治時代に保守派言論人として活躍した陸羯南(くがかつなん)は、愛国心を「国民的自負心」「国民自尊の感情」であると定義している。

 しかし、誇りの感情は、傲慢(ごうまん)さや他者に対する優越感へと容易に転化しがちである。アメリカの哲学者リチャード・ローティはいう。「国民が自国を誇りに思うのは、個人が自尊心を持つのと同様である。(中略)国民としての誇りが過大になると、戦闘的かつ帝国主義的になりうるが、それは過剰な自尊心が傲慢さを生むのと同様である」。では、自尊心はどのように傲慢さへと変化するのか。

 ドイツの社会学者ノルベルト・エリアスは、イギリス人とドイツ人を比較して、自尊心が自信に裏打ちされているかどうかが、傲慢さへと変化するかどうかを決める、と論じた。イギリス人は自国民文化に自信を持っているため、自尊心が尊大にならないが、ドイツ人の場合、そうした自信がないため、自国への誇りの感情は極めて厳粛なものとなり、他国人によってからかわれるなら激怒する、というのである。

 翻って、日本人の現状は、エリアスが観察したドイツ人に似ているのではなかろうか。おそらく50歳以上の方々であれば、かつて日本が経済超大国だった時代の雰囲気をご記憶であろう。現在では「失われた30年」になろうとしており、一般庶民の多くが日常的に「生きづらさ」を実感している今、日本人の自尊心は自信の裏付けを失っている。したがって、現代日本人の誇りの感情はドイツ人のそれのように振幅の激しいものになりがちなのではないか。

 しかし、過剰な誇りの感情を抱くことは、あまり自分に自信を持てない現実から目を逸(そ)らす自己欺瞞(ぎまん)にすぎない。静かな自信に裏付けられた自尊心としての愛国心は、自国の現実を正視するところから始まるのではなかろうか。(ニュージーランド・オタゴ大教授)