「金メダルってそんなにほしいと思わなかったけど、勝つことが目的だったのは確かやね」と話す中島さん(滋賀県高島市安曇川町)

「金メダルってそんなにほしいと思わなかったけど、勝つことが目的だったのは確かやね」と話す中島さん(滋賀県高島市安曇川町)

 猛練習に耐え、国民の期待に応える―。「東洋の魔女」と呼ばれ、1964年東京五輪で金メダルを獲得したバレーボール女子日本代表は、そんな昭和のアスリートの象徴として引き合いに出されることも多い。
 「大松(博文)先生はあだ名を付けるんだから。私は怒られた時、プッとふくれるから『ふぐ』と」。背番号「4」の主力として栄冠に輝いた中島(旧姓・半田)百合子(79)=滋賀県高島市=は、穏やかな表情で当時の記憶をたぐり寄せる。

■「スポーツが好き」支え
 62年の世界選手権で優勝し、チームの大半が引退する意向だった。だが、2年後の東京五輪で女子バレーが正式競技に決まり、中島も現役続行を決めた。金メダル獲得が課せられた大松監督の指導は厳しさを増し、練習は深夜に及ぶことも。高まる国民の期待に選手たちは「負けたら遠くの国に逃げようか」と、半ば本気で話し合っていた。
 重圧に押しつぶされそうになる中、純粋に「スポーツが好き」という気持ちが自身を支えた。高校時代は禁止されていた練習中の給水も代表では可能で、大松監督の指導には練習を飽きさせない工夫があった。中島は監督が編み出した回転レシーブについて「起き上がり人形みたいなのからヒントがあったんだろうね。やってたら面白いよ。元の姿勢に戻って動けるし。『よし来い!』って、対抗心丸出しでやってたよ」と懐かしむ。
 中島は2度目の東京五輪で「笑顔」に注目している。ミスをしても切り替えることのできる精神的な強さを表すと考えるからだ。中でも、バレーボール女子日本代表の若手エースとして期待がかかる東レの黒後愛(21)に熱い視線を注ぐ。同じ栃木県出身。大津市を本拠地に、笑顔たっぷりにプレーする姿を見て感銘を受け「あなたの笑顔は最高の武器になる」とメッセージを送った。「せっかく練習したものを出せないと心残りがあるだろうけど。力を発揮して負けたのならそれでいいと思うけどね」と、現役選手たちへの思いを語った。

■五輪の形考える時期
 東京五輪を機に、競技スポーツとの向き合い方に変化は訪れるのだろうか。ロンドン五輪のレガシー(遺産)について研究する立命館大准教授の金子史弥(38)は「近年は『楽しみたい』とか、メダルを取るよりも『やりきること』に力点を置く選手は増えている」とする。一方で、「観戦する側の意識を変えるのが難しい」とみる。その背景に、日本のメディアは競技志向が強く、いざ大会が始まれば報道がメダル数に集中する可能性があることを指摘する。
 「スポーツは苦しんでやるものではなくて、楽しんでやるものだと、アーバンスポーツの選手たちに教えてもらった」と語るのは、フェンシング五輪銀メダリストの太田雄貴(34)=平安高―同志社大出=だ。太田は日本フェンシング協会の会長として会場演出などで改革に乗り出す一方、日本アーバンスポーツ支援協議会で副会長も務める。テクノロジーを駆使し、観客が見て楽しめることも重視したフェンシングの新種目の開発にも着手している。
 昨年12月には、国際オリンピック委員会の選手委員に立候補し、会見で「今の社会にフィットする形の五輪を考えていくタイミングが来ている」と力説した。「いわゆるクラシックな伝統競技は、努力して努力して、というところだったが、今の時代にあった努力の仕方や楽しみ方はいろいろある」と語り、新たなスポーツモデルを創造していくことに意欲を見せる。=敬称略 <シリーズ:ゆらめく聖火 東京五輪の風>