「い」の字の推定地

「い」の字の推定地

「い」の字の推定地

「い」の字の推定地

 お盆に迎えた先祖の霊を送る「五山送り火」(16日夜)で明治時代に途絶えた「い」の字について、京都精華大の小椋純一教授が11日までに京都市左京区静市市原町の向山で推定地の山腹に加え、山裾に近い場所でも火床の跡などとみられる溝を見つけた。京の町中からも眺められるよう江戸時代中期までに火床を山裾近くから山腹へ移したとみており、地域の行事だった送り火が近世に京の夏の風物詩になってゆく痕跡との新見解を提示している。

 小椋教授は山や森林の植生史や景観史を研究している。江戸期の史料のほか地元の記録や言い伝えなどから、向山(標高426メートル)の300メートル付近の山腹で、明治30年代ごろまで「い」の字が点火されていたとする見解をこれまでに示している。

 4月から衛星利用測位システム(GPS)で向山一帯の地形を5メートル四方ごとに詳しく調査し、東西で対になるような溝を尾根沿いで確認した。長さは山腹が東側で80メートル前後、西側で70~120メートル前後、やや下がった山裾が東西とも70メートル前後だった。現地で一部を調べると、断面はU字に近い形状で幅1~2メートル、深さ数十センチだった。小椋教授は「溝は人為的に作られた送り火の火床か、そのために使われた道の跡ではないか」と推測する。

 送り火は始まった時期を確定できていないが、江戸前期には京都のお盆を象徴する行事となり、文献や絵図でも広く紹介された。1717年の文献「諸国年中行事」には現存する「大」などに加え、市原の「い」も記されている。

 小椋教授は「いの字は古い時代は山裾に近いところで行われ、地元にとってはこちらの方が良い形で見えていたはずだ。だが18世紀初期までには火床を山腹に移動させていたと想定でき、今回見つかった溝は京の町中の人や観光客らが眺望する現在のような送り火へと移り変わってゆく流れを示す痕跡に思える」と話している。