日中戦争への出征前に撮影された田中為三郎さん(右)と妻もとさんの写真

日中戦争への出征前に撮影された田中為三郎さん(右)と妻もとさんの写真

 大津市に住む100歳の女性が、フィリピンで命を落とした夫の戦死公報を2枚保管している。1枚目を受け取った後、記載された戦死日に夫が生きていたという戦友の証言を受け、戦死の日付と場所を訂正して2枚目が発行された珍しい例。遺骨も戻らず、本当の状況は今も判明していない。女性ら遺族は「戦死場所がはっきり分からず、お参りもできない。ひどい時代を繰り返してはいけない」と戦争の悲惨さを訴える。

 大津市枝3丁目の田中もとさん。農家だった夫の為三郎さんは1938年に結婚して間もなく日中戦争に出征し、翌年に帰還。全国の荒れ地を開墾する国の事業に携わったが、44年に2度目の出征でフィリピンに赴いて戦死した。

 終戦後、もとさんが最初に受け取った公報には「昭和19年9月21日、比島バブヤン海峡の戦闘に於いて戦死」と記されていた。出征日の8月22日から1カ月しかたっていなかった。信じられず、すでに帰還していた京都市内の戦友を訪ね、公報の死亡日には為三郎さんが生きていたとの証言を得た。

 もとさんは当時の日記に「公報に在った日はバーシ海峡でやられて、救助船にて助けられ、翌日に上陸。入院後、部隊の後を追ってマニラに到着。奥村少尉と共に行動していたそうである」と記す。その後、地元の役場支所に死亡日の変更を申し出た。「『海で、戦いもせずに死んだ』と、そのままにして置くことは、私には出来ない。お国の為、唯ひとすじにつくされた真心にもすまない」と心情をつづっている。

 新たに届いた公報には「昭和20年3月21日、ルソン島アンティポロ方面の戦闘に於いて戦死」と記されていた。書き換えられた日や場所の根拠は定かでないが、長女の満里子さん(78)は「父がもう少し戦局を見守って戦っていたと信じたかったのでは」と母の気持ちを思いやる。

 1949年秋、小学生だった満里子さんは、トラックで近所に運ばれた為三郎さんの遺骨箱を受け取りに行ったが、中から出てきたのは小さな木片1つだけ。「同じように親族の行方が分からない方がたくさんいた。誰かを責めたり、理由を尋ねることはできなかった」と振り返る。

 満里子さんは「母が最後まで待っていたのに、父が死んだ状況は分からず、現地を訪ねることもできないのは悲しい。いつかお参りできる日がくれば」。もとさんは高齢のため伏せがちといい、満里子さんを通じて「赤紙が来た時から、夫の死を覚悟しなければならなかった。戦争を2度と起こしてはいけない」とコメントした。