戦友に送っていた茶を眺める中辻さん。鬼籍に入った彼らの分まで、体験を語りたいと思っている(京都府宇治田原町禅定寺)

戦友に送っていた茶を眺める中辻さん。鬼籍に入った彼らの分まで、体験を語りたいと思っている(京都府宇治田原町禅定寺)

 「犬死に以外の何でもない。骨も全部混ざって、誰かも分からんようなってる」。シベリア抑留者の遺骨取り違えを伝えるニュースに触れ、中辻三郎さん(94)=京都府宇治田原町禅定寺=は1945年から3年間を過ごしたシベリアの景色を思い出していた。所属した中隊240人中、最初の冬で65人が亡くなった。原っぱに穴を掘り、数十人の仲間を埋葬した日々を思い出す。「今も涙が出る。何があっても戦争だけはしてはあかん」

 44年に入隊、中国東北部に送られ、家の基礎工事などに従事した。終戦を知ったのは8月19日。日本に帰れる。ささいな理由をつけては上官にビンタされる日々が終わる。「助かった」と思った。だが、帰国のためと言われ乗り込んだ船は、シベリアへ向かった。

 下船後、収容所を目指し日中は一列になって歩き、夜は野宿する日々。9月初旬だったが、池に氷が張るほど冷え込み、下痢をする隊員が続出した。列を外れ用を足そうとした隊員は銃で撃たれた。下痢を漏らしながら歩いた。

 収容所では近くの炭坑でレールを運んだ。食事は「馬に食わせるような、かすだらけの」黒パン1枚と、少量の羊肉が入った油っぽいスープのみ。栄養失調や極度の疲労のため屋外で意識を失い、そのまま凍死する隊員が続いた。亡くなった隊員を運ぼうと腕をつかむと、そのままポキリと折れた。みんな、木の枝のようにやせ細っていた。

 初めは亡くなった隊員一人一人に空き缶をたたいてお経を上げたが、30~40人単位で埋葬せざるを得なくなり、兵長以外は名前も呼ばれなくなっていった。「生き地獄だった」と振り返る。

 ある日、「真面目に仕事しているやつの名前を挙げろ」とソ連兵が隊員に告げた。仲間から名前が多く挙がった中辻さんは、48年、帰国が許された。船上から見た舞鶴港は緑が映え、荒涼としたシベリアとの違いに涙が出た。

 宇治田原町に帰ってからは、茶とシイタケの栽培に打ち込んだ。自慢の茶と手製の古老柿を毎年戦友に送ってきたが、今は全員鬼籍に入っている。

 終戦から74年がたち、シベリア抑留を語り継ぐ人は少なくなった。「戦争は人の心がなくなる。あんなつまらん、ばかなもんはない」。亡くなった仲間の分も、平和の大切さを伝えようと思う。