記者会見の冒頭でコメントを読み上げる石田敦志さんの父基志さん(27日午後7時11分、京都市伏見区・伏見署)

記者会見の冒頭でコメントを読み上げる石田敦志さんの父基志さん(27日午後7時11分、京都市伏見区・伏見署)

 「京都アニメーション」(京アニ)第1スタジオ放火殺人事件で、犠牲になった石田敦志さん(31)の父、基志さん(66)が27日、京都府警伏見署で記者会見し、「理不尽な被害にあった名前を、京都の伏見、宇治に長く残してほしいのです。これからも京都アニメーションを応援して下さい。石田敦志というアニメーターが確かにいたということを、どうか忘れないで下さい」と訴えた。会見で基志さんが語った思いは次の通り。

 私どもの敦志は、私にとっては出来過ぎた息子でありました。温厚で人と争うのが嫌いな子どもでした。夢を追いかけ、高いハードルを何度も自力で飛び越え、夢をかなえました。そして数々のアニメ作品に参加し、私たちに多くの夢と感動を残してくれました。本当にすばらしい子でした。

 小さい頃からアニメに興味を持ち、大きくなったらアニメの仕事がしたいとよくいっておりました。最初は子どもがプロスポーツにあこがれるようなものだ、と私は思っていましたが、長ずるにつれ、これは本気だなと思うようになりました。けれども、私が知る限り、アニメクリエーターの環境は決して恵まれた環境ではない。調べれば調べるほど不安になり、アニメ業界に入るのは最初反対しました。

 それでも敦志は決してあきらめず、わたしが与えた課題を拒否することもありませんでした。きっと私ども親を苦しめたくなかったのでしょう。アニメの勉強と学業とを両立させて、自力でクリアしていきました。

 そして私が与えた最後の課題が、京都アニメーションでした。クリエーターたちにとって過酷な環境が多いアニメ業界において、京都アニメーションは唯一といっていいと思いますが、クリエーターの生活保障がしっかりしていて、クリエーターを大事にする会社だと知りました。もし、ここに入ることができたら、私も心から応援できると思いました。しかし、今から思えば、ずいぶん遠回りさせたと反省しています。

 こんなエピソードがございます。入社間もないころ、先輩から「クリエーターは原画を目指すべきだ」とアドバイスをいただいたそうです。それを本人は納得しつつも、ここが敦志らしいのですが、動画を自然としかも美しく動かすことにも魅力を感じる、と私にいっていたのでした。実に敦志らしいな、と思ったものです。

 自然にしかも美しく動かす。ここにこだわった10年間だったように思います。やっと円熟期に差し掛かり、これから本当に磨きがかかるのを楽しみにしていたのに、31歳の志半ばで逝ってしまいました。この悲しみと怒りは筆舌に尽くし難いものがあります。人生の過酷さは知っているつもりでしたが、人生にこんなにも、理不尽で、悔しくて、苦しくて、悲しいことがあるとは思ってもいませんでした。胸が張り裂けそうであります。

 入社が決まり、敦志の引っ越しのとき、京都アニメーションの本社にごあいさつに行ったときの話です。社長の奥様である八田(陽子)専務と、総務部長だった村元(克彦)さんがわざわざ対応され、八田専務がいわれるには『この業界に息子さんを送り出すのはさぞご心配でしょう。でも、お父さんご安心ください。弊社で3年がんばれば、この業界のどこにいっても通用する人材になるのは間違いありません。そういう人材しか採用していません。どうか応援してやってほしい』とのことでした。

 その頃には私は京アニファンになっていました。『素晴らしい作品を生み出した京都アニメーションでわが息子がお手伝いできるのは大変光栄です』と応じると、八田専務は『そうではありません、お父さん。手伝うのではなく、一緒に作るんです』と。まだ入社してもいない息子を一人前に処遇する八田専務のお言葉に大変感激したのを、今でも鮮明に覚えています。

 その後、今回被害にあった第一スタジオに案内くださり、あの有名な石立(太一)監督や山田(尚子)監督を直接ご紹介いただき、感激もひとしおでした。最後に玄関口でごあいさつをと思ったとき、その壁に私が京アニ作品のすばらしさに出会った最初の作品である『AIR』のポスターが目に入ったので、わたしが別れのあいさつのつもりで『こんな素晴らしい作品のお手伝いをさせて…』と言い終わらないうちに、今度は村元さんが『いえ、違います。お父さん。一緒に作るんです』と。この言葉で、これは社交辞令ではないと感じ、ここなら大丈夫と確信したのを昨日のように覚えています。

 京都アニメーションはクリエーターと作品を大事にするすばらしい会社です。このたび、たった一人の卑劣な犯罪者のために、まだまだ多くの素晴らしい作品を輩出したであろう、才能と創造力にあふれた多くの人材が亡くなり、傷ついたことは、わたしども遺族や被害者、家族のみならず、日本の大きな損失です。なくしてはならない存在です。このような人材は、一朝一夕でできるものではない。残念でならない。どうかみなさん、敦志が愛した京都アニメーションを応援してください。石田敦志というアニメーターが京都アニメーションに確かにいたことをどうか、どうか忘れないでください。心よりお願いします。

◇書面の読み上げに続き、報道陣との質疑応答が行われた

―息子さんを亡くされて苦しい思いの中、会見していただきお礼を申し上げます。息子さんはどのような存在でしたか。一番忘れられないエピソードは何でしょう。

「敦志はわたしども家族にとって唯一の男の子です。末っ子でした。同性の男親の私としては、彼がもう家内のおなかに入って、男の子ということを告げられたときから、本当に有頂天でした」

「冒頭に申し上げましたが、敦志は人と争うことがものすごく嫌いで、実はわたしとは正反対でした。私はどちらかというと体育会系の人間です。敦志は人と争う、競うのが非常に嫌いな人間でした。かといって、スポーツをやらないのでもない。スポーツは人並み以上で、サッカーも水泳もやれました。ただ、体育会系の私のような相手に勝つ、そういう競う楽しみを好まないのを感じたのもよく覚えています」

「それと、敦志は非常に親思いでした。私と性格が真逆だったせいか、馬が合い、よく家族旅行をしましたが、私にもたくさん付き合ってくれました。私どもは福岡に住んでいますが、鹿児島の指宿に日帰りとか、ドライブでは無理があるような遠出でも、非常に快く付き合ってくれました。そんな優しい子でした」「参加した作品は、そうですね、2010年の『けいおん!』を皮切りに、記憶しただけでも30以上の作品に参加しているはずです。そのたびにテレビ放映があれば、どこどこのチャンネルで何時からあるよと。映画の作品であればチケットを必ず送ってくれました。エンドロールに石田敦志の名前を見るのが、非常に家族一同の楽しみで、冒頭に何度もいいましたが、何度も夢と希望を与えてくれました」

「ただ、私が一番残念なのが、敦志は親孝行だけをして逝ってしまいました。私は、彼には何もしてやれなかった。夢の京都アニメーションに採用していいただいたのも、すべて彼の努力です。福岡工業大で情報工学をやりながら、夜間のアニメ専門学校に行き、両立して、有名な京都アニメーションに採用していただきました」

「私が今日ここに、みなさんの前にみっともない姿をお見せできるのも、皆さまに敦志のことを多く知っていただきたい。それしか私どもにできることはない。そういう思いで今ここに座っています」

―京都アニメーションに進むというのは、お父上が提案されたのでしょうか。

「もちろん第一希望は京アニだったと聞いています。ただ、先ほど申し上げた通り、一人息子なので、将来不安があるような進み方はやはり避けたい思いが強かったです。アニメ関係の会社がいったいどういう環境なのか、わたしなりに調べさせていただきました」

「そしてある雑誌だったと思いますが、八田(英明)社長ご夫妻の企業理念を読みました。皆さんのがんばりで『けいおん!』や『AIR』とかが評価されていましたが、まだまだ自社制作が完全に軌道に乗っている時期ではありませんでした。だけども、クリエーターを大事にしたいという思い、それと今からの企業展開をぜひ自社完結型でしかもクリエーターの生活保障ができる会社にするんだ、というのを読んだ時に、失礼ですが、他の会社とは明らかに違うなと」

「ただ、わたしも素人調べでしたが、かなりハードルが高い、質の高い作品を作っている。当然、クリエーターの絵への注文も高い。そういう人材しかやはり採用しない。敦志が果たしてそれだけの技量があるのか、私としてはまったく未知数でした。それで、半分はあきらめてほしい思いもあり、情報工学をしていたので十分生活できてゆく環境にあると思い、京都アニメーションに採用されるなら自分は応援するよと」

「わたしなんかが若いころだとかなり反発したと思うのですが、あの子は本当に優しい子で、一言でわかった、がんばると。全然いわゆるもめたことがない。ただ、採用通知を見たときは舌を巻きました。正直びっくりした。私なりに勉強していたので、京都アニメーションのレベルがどこにあるのか理解していたので、本当に採用通知を見たときは何度も確認しました。何か誤字があるのでないかと。だけど、実際はそういうことでした。これはぜひ皆さんに申し上げたい。本社にごあいさつしたとき、話を聞いたときは本当に本物だと思いました」(下に続く)