京都アニメーションの映画「劇場版 境界の彼方」(石立太一監督)のパンフレット。同映画には石田敦志さんの名前がクレジットされている

京都アニメーションの映画「劇場版 境界の彼方」(石立太一監督)のパンフレット。同映画には石田敦志さんの名前がクレジットされている

 「京都アニメーション」(京アニ)第1スタジオ放火殺人事件で、犠牲になった石田敦志さん(31)の父、基志さん(66)が27日、京都府警伏見署で記者会見した主な質疑は次の通り。

―2009年春に入社され、30以上の作品に参加されました。特に思い入れがあった作品についてエピソードはありますか。

「それはなんといっても最初にいわゆる『動画』のところに石田敦志という文字が出た『けいおん!』の2作目ですかね。石田敦志が動画のところに出たのは、さすがにうれしそうでした」

―それは一緒にご覧になったのですか。

「テレビ放送なので、録画して(一緒に)見ました。敦志は時間が取れれば、福岡によく帰って来てくれました。(そのときは)制作と制作の間に時間が取れたので帰ってきていました。たぶんそれは無理やり時間を作って、そういう自分の感激を、当然喜んでくれるであろう家族に直接言いたかったのではないかと」

「こういうところが難しいとか。自然に見えるには人間の動作そのものを表現しないとできないんですよとか。まるでベテランがいうように、たぶん先輩の受け売りとは思いますが、本当にうれしそうに話していました。なかなかそういう表情を見せないですね。はにかむという笑顔が、一番印象に残っているぐらいで。ああいう、うれしそうな姿はなかなか見られませんでした」

「それと、たぶんその時だろうと思いますが、先輩から原画を目指しなさいと指導を受けた話をしていました。それは入社して2、3年たった頃と思いますが、たぶん憧れの石立監督が直属の上司で動画の指導を受けていた。その石立さんと一緒に写った写真を大事に、この前、遺品整理していたら持っていたんですね。今度お会いしたら聞いてみたいが、直接そういう指導を受けたのが、うれしそうでしたね。それが印象に残っています」

―非常にお聞きしづらいことですが、敦志さんがお亡くなりになられた時のことを教えてください。

「まず敦志の死については(事件のあった)7月18日当日に、もちろん今でも実感としてはありませんが、そういうことなんだなという風に、頭では理解しました。私どもは福岡から、事件の報道直後に車で走り、夜8時ごろにつきました。その間、京都アニメーションの方と情報交換をずっとしていましたが、会社も混乱していて、いったいどれぐらい被害が出ているのか、電話ではお聞きできませんでした。ところが、京都アニメーションさんが準備された控え室に行ったところ、けがをした方、救助された方のすべての名前が判明していました。ということは、夜の8時、いまだに行方が分からないのはどういうことか。その時に頭では理解しました」

「次の日でしたか、やはり遺体を特定しないといけません。その方法は現状からしてDNA鑑定しかないだろうという話だったので、私のDNAを提出して、その照合に数日かかるという話でした。いったん福岡に(帰った)。24日でしたか、(京都府警の)捜査本部からお電話いただき、『残念ながらDNAが一致しました』ということを聞いたのが一連の経緯です」

「しかし、正直なところ、いまだに実感はない。受け止め切れていません。遺影をうちに飾っていますが、それを見ましても、わたしが申し上げた、はにかんだ敦志のいつもの笑顔。その顔がこの世にいないんだということが、どうしても吞み込めません。わたしは確かに敦志だと、対面の時も確認しましたし、そういった事実は頭の中にはありますが、いまだに本当なのかというのが正直なところです」

「遺影はなぜ、はにかんだ笑顔の写真を選んだのか。先ほど申し上げた、石立さんと一緒の写真で、本当に彼らしい、本当はうれしくてたまらないのに、はにかんだ笑顔なんですね。これが敦志なんです。それを葬儀の時も、石立さんのご了解を得てスライドにさせてもらい、それから敦志だけの遺影にもした。石立さんは、敦志が身近で最もあこがれた先輩でした。何度も足を運んでいただき、私どもにもお気遣いをいただきました。これで(自分が)つぶれたらだめだな、という思いになったのも事実です」

―敦志さんの仕事ぶりについて石立さんからどのような話がありましたか。

「先ほど申し上げた、やっと八田ご夫妻の理念のもとに、京都アニメーションのあるべき姿を作っていく草創期に、敦志は入社させていただきました。石立さんがいわれるには、『石田くんがいなかったら、今の京都アニメーションはない』と。社交辞令という話をしましたが、石立さんはそういう風に取られては心外だと思われたのでしょうが、『本当ですよ』と何度もいっておられました。その言葉に儀礼やあいさつはないな、と思いました」

「それと職場では、わたしどもには冷静沈着な息子というイメージでしたが、非常にひょうきんで、ひょうきんというか、おどけたりはしないが、石立さんがいうには、クリエーターの現場は、特に京都アニメーションではみんなでつくるという意識が強いですから、それぞれの意見が飛び交うわけです。すると、ややもすると、ちょっとギスギスした雰囲気になったりする。『それを和らげてくれたのが石田君でした』と。『素晴らしいキャラクターで、お父さん、ああいう風に育てるにはどうしたらいいか』と言ってもらえた。そういった面があったのかな、みなさんにかわいがってもらっていたんだな、と思います」

「最後に、先ほど言い切れなかったことをこの場で申し上げたい。私の今の心境は、こういう事実は認めないといけないだろうな、そういった思いの中で今感じていることは、きっと、皆さん優秀な方々で、志半ばで旅だったわけなんですが、きっと来世もお仲間と再会をして、皆さんとともに夢をかなえてくれるんだろうなという風に思いたいですし、思っています」

「それともう1点だけ、よろしいですか。いろんなお考えがあるとは思います。私もこういったみっともない姿を、いい年をした男が涙ながらにお話しさせていただくのは、そんなにかっこいいとは思わないが、あえてこの場に出させていただいたのは、先ほど申し上げたとおり、京都アニメーションのクリエーターは本当に、手前味噌ではないが、選ばれた方々です。そして私の息子も含めて、みんな希望と誇りを持って毎日仕事をしていたんだと思う。そのそれぞれの名前をお持ちで、わたしの息子も石田敦志という名前を持っています」

「それが35分の1で果たして、本人たちはそれでいいのかなと。これは他の方々への批判ではございません。わたしの偽らざる思いを言わせてもらっています。決して『35分の1』ではなく、けがをした人もいる。クリエーターでちゃんと名前があり、毎日がんばっていた。そういった人たちに、われわれ残った者ができることは、そこでそうやってがんばっていたんだ、ということを多くの人に記憶していただく、覚えていただく、忘れないでください、と言うしかできないと思います。そういった思いから、かなり自分としては、しんどい時期ですが、あえてこういう場に出させていただきました」

「もう一つ、日ごろから私がいっていることがあります。人は一度は、だれでも旅立たないといけない。人との別れは本当につらい。どういった別れでもつらいと思う。しかし、何が一番つらいか。順番が違うこと。順番が違うことが最も不幸なことだと。日ごろからそう言っています」

「そういった意味で、いろんな方が、いろんな思いでいらっしゃるでしょうけど、少なくとも私自身、石田敦志の名前を、これは石田敦志だけではありません。今回理不尽な被害にあったみなさん個々の名前を、あの京都の伏見、宇治、そこでがんばっていたんだ、ということを長く残してほしい」

「私にとっても、私の家族にとっても、京都は非常に好きなところです。京都アニメーションとお付き合いになる前から、家族旅行を含めてよく来ていました。特に敦志が京アニにお世話になるようになり、伏見と宇治は特別なところになった。その特別なところが、悲惨な場所になってしまった。どうか、私どもが宇治に行ったら敦志に会える、私どもの家族が、敦志ががんばっていた宇治、伏見に行けば敦志の名前が見られるな、といったもの。慰霊碑というんですか、ああいったもので残していただければと切に願っています」

「名前を出さないでください、という方々がたくさんいらっしゃる。その気持ちは痛いほど分かります。だけども、あえて私の考えを述べると、残ったわれわれががんばりたいなと、私どもの家族は言っている。他の家族にそうしてくれというのではございません。私どもの家族はそう話し合っています。われわれががんばる。いろいろなバッシングもあるかもしれないが、あえてわれわれががんばる。それでも石田敦志の名前を出したいな、それが私どもの一番の思いです」