原文は中村義雄・小内一明校注『新日本古典文学大系42』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している

 今は昔、忠明という検非違使がいた。若輩であったころ、清水寺の舞台で口さがなく血の気の多い京都の若者(京童部(きようわらわべ))と喧嘩(けんか)になった。京童たちは、みなそれぞれ刀を抜いて、忠明を取り囲んで殺そうとしたので、忠明も刀を抜いて、秘仏観音のおわす御堂(本堂)の方へ出たところ、本堂の東の端に、多くの京童が立ちふさがり向かってきたので、そちらへは逃げることができず、蔀戸(しとみど)(格子の板戸)の下の方を抜き取って脇にはさみ、舞台の前の谷に勢いよく飛び降りた。

 蔀は風を受けて扇(あお)がれ、忠明は、谷の底へ鳥が舞い降りるように、ゆったりと落ちて着地すると、そこから逃げて行方をくらました。京童は、谷を見下ろして、あきれるやら口惜しいやら、呆然(ぼうぜん)と立ち並んで、下方を眺めていたという。

 またいつごろのことだったろうか、女が、小児を抱いて、本堂の前の谷をのぞいて立っていた時、どのようにしたことか、うっかり子を抱き損なってするりと手から抜け、谷に落とし入れてしまった。どうしようもなくて女は、仏の御前に向かって、「観音様、お助けください」と、手をすって狼狽(ろうばい)しつつ祈ると、小児は、まったく何の疵(きず)もなく、谷の底の木の葉が多く積もりたまっている上にね、うまく落っこちて乗っかかって伏せっていたので、人々はそれを見つけて抱き上げ、驚嘆して、観音の御利益の尊さをありがたがったという。

「清水寺境内図屏風(17世紀)」(部分、清水寺蔵)舞台の右側が東の妻(端)。石段から音羽の滝の方へ逃げようとした忠明は、行く手をふさがれ、舞台から飛ぶ。清水寺は寛永6(1629)年9月10日の大火で本堂以下の多くの堂塔伽藍が焼失。同10年に再建された。本図はそれ以降の成立で、現在の清水寺の姿につながる画像である

蔀をはさみ、谷に躍り落ち

 

 清水寺は、観音信仰の聖地だ。古来、霊験や現世利益の逸話は数知れない。「妻観音」として男女の縁も結ぶ。江戸時代には「心願」を抱いて清水の舞台より飛び降りる「飛び落ち」がはやった。明暦二(一六五六)年刊の俳諧手引き書『世話焼草(せわやきぐさ)(世話尽(づくし))』にも「清水の舞台から後飛(うしろとび)」という諺(ことわざ)が載る(巻二)。

 元禄七(一六九四)年から元治元(一八六四)年に及ぶ『清水寺成就院(じようじゆいん)日記』の現存百四十八年間の記事の中に、本堂舞台からの飛び落ち(未遂などを含む)は二百件以上ある。文化十一年六月三日、翌年三月十七日と二回も飛び落ちをした「少々乱心者」の娘もいた。「無事」「達者」また「正気」「気丈」の場合も多く、八割以上は命に別状なかったようだが、怪我を負ったり「相果(あいは)て」て死骸をさらされる悲劇もある。実行者は十代から八十代までと幅広いが、やはり十代二十代の若気の過ちが目立つ(横山正幸、加藤眞吾)。

 京都府は、明治五(一八七二)年に飛び落ちの禁止令を出した。同年八月の『京都新聞』(西京新聞社)37号は、「この舞台飛びといふ事は、演劇者(やくしや)近松某なる者、劇場(しばい)歌舞伎の戯作(げさく)より」「妄語(もうご)を伝へ」て広まった。影響された「愚夫愚婦」は「分外(ぶんがい)僥倖(さいわい)の福を祈り」、「不正の淫媒(いんばい)を願ふて」飛び落ち、死んだり、大けがをしたりする。「かかる文明日新の今日に至り」、「誠に口惜しき」「愚昧(ぐまい)」だと論説する。

 近松某の歌舞伎とは、近松門左衛門が浄瑠璃を歌舞伎に脚色して京都で上演した『一心二河白道(いつしんにがびやくどう)』を指す。清水寺の僧清玄(せいげん)が桜姫(さくらひめ)という高貴な美女を見初めたことが発端となるこの芝居は、清玄桜姫物(せいげんさくらひめもの)として人気を博し、寛政五(一七九三)年初演の『遇曾我中村(さいかいそがなかむら)』では「桜姫が下駄と持物をそろえ、舞台から傘を開いて飛び下りる演出が工夫される」(横山正幸)。その様子は浮世絵にも描かれ、流行に拍車を掛けた。傘を持って飛び落ちたり(文政七年五月二十二日、天保四年七月二十七日)、舞台の廂(ひさし)の辺に「傘・提灯・下駄など」を残して飛び落ちたり(文政七年九月二十四日)する女が『成就院日記』に見える。

 忠明も「若男」の時に喧嘩して窮地に陥り、舞台から飛び下りた。ただし平安時代の話である。原文の『古本説話集』は、昭和に発見された鎌倉時代・十三世紀の写本で、現在は東京国立博物館所蔵の重要文化財(「e国宝」サイト参照)。『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』とほぼ同文の説話を多く共有する貴重な中世資料だ。この二話も『今昔物語集』巻十九に同じ順序で載り(第四十、四十一)、『宇治拾遺物語』九五話は忠明説話のみを採る。

 『古本説話集』で清水の舞台に相当するのは「清水の橋殿」である。『今昔物語集』も同じ。橋殿とは、床を高くして、谷や川などに橋のように掛け渡した建造物だ。ところが『宇治拾遺』には「清水の橋のもとにて」「いさかひをしけり」とある。「清水の橋」なら、「清水橋」「清水寺橋」と呼ばれた五条橋(現松原橋)のことと解釈するのが自然だ。当時の清水寺参詣路は、清水橋を渡って京洛を出て、旧五条通(現松原通)から清水坂、清水寺へと登る。『宇治拾遺』の忠明も「太刀をぬいて、御堂ざまにのぼる」。「御堂ざまに出(いで)たるに」(『古本』)でも「御堂ノ方様(かたざま)ニ逃(にぐ)ルニ」(『今昔』)でもない。本堂の方へ「のぼる」という。そして「前の谷へをどり落つ」。伝承の再話が微妙に違う。

 このずれの理解に参考となるのは、弁慶と義経の戦いの場だ。謡曲『橋弁慶』の弁慶は、五條天神社に参詣する途上の「五条の橋」で女装の牛若に挑発され、長刀(なぎなた)を振るう。唱歌で馴染みの場面である。しかしより古い軍記『義経記(ぎけいき)』では、太刀千振(ちふり)の収集にあと一本と迫った弁慶が、五條天神社で成就を祈った夜、「よき太刀持ちたる」牛若と「天神にて見参に入」る。明け方、堀川小路で牛若の太刀を奪おうとするが、兵法の奥義に翻弄される。翌六月十八日の清水寺の縁日に、惣門で待ち伏せをした弁慶は、「観音に宿願あり」と清水坂を上(のぼ)ってきた牛若を「清水の正面」へと追い、御堂から「舞台へ引いて、下合(おりあ)ふて、戦ひける」。清水の橋から舞台へ。『宇治拾遺』の空間認識に示唆的である。。

清水寺(京都市東山区)

 高倉天皇との悲恋で知られる小督局(こごうのつぼね)ゆかりの清閑寺から、清水寺へと向かう。「歌の中山」と呼ばれる古木に覆われた山あいの小道は、清水坂側の参道のにぎわいとは対照的な静けさに包まれている。

清水寺の舞台、三重塔を子安の塔付近から望む(京都市東山区)
 
清水寺

 清水寺に入り、道を左にとると子安の塔。谷をはさんでその先に、舞台(本堂)や朱色の三重塔が夕日に映え、夢のように広がっている。舞台は今、「平成の大改修」の覆いに囲まれ、本来の姿をうかがうことはできない。ただ、舞台に上ることはでき、木の節が浮きあがるほどにすり減った床の上は、人でいっぱいだ。

 舞台からの「飛び落ち」は、観音様をひたすら念じ、命を預け満願成就を願った行為という。舞台で見おろせば、高さに身がすくむ。念彼(ねんぴ)観音力―信心の力に驚くばかりだ。

 清水寺は舞台の床も張り替えられ、今年末に12年に及んだ大修理を終える予定。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)