宇治古墳群は、宇治川右岸に築造された宇治地域の中・大型古墳(首長墳)の総称です。この地域では、古墳時代の前期から後期にかけて連綿と首長墳の築造が続けられました。築造時期の古い順から、少なくとも観音山古墳、二子山北墳、二子山南墳、瓦塚古墳、二子塚古墳の5基の古墳が確認されています。このうち二子山北墳、二子山南墳、二子塚古墳の3基が2018年に国史跡に指定されました。

 古墳群が所在する宇治地域は、巨椋池の東岸から南岸にあたり、宇治川の渡河点を含む一帯は古代から交通の要衝として位置づけられます。大化2(646)年には、宇治橋が架けられたと伝えられ、右岸側には、現在世界文化遺産宇治上神社が鎮座しています。また、一帯は平安時代に貴族の別荘地として開発が進みました。特に左岸に藤原道長が構えた別荘は、その子頼通により平等院に改められ、世界文化遺産として現在も多くの人々に親しまれています。

二子山北・南墳遠景
二子山古墳北墳西槨出土玉類
二子山古墳北墳出土甲冑

 この交通の要衝の地を見下ろすように、丘陵上に築かれたのが、二子山北・南墳です。出土した埴輪(はにわ)や副葬品から、古墳時代中期前葉に北墳が築造され、中期後葉に南墳が築造されたことがわかっています。二子山北・南墳が築造された古墳時代中期には、大阪の百舌鳥(もず)・古市古墳群に代表される、大型の前方後円墳が次々に築造されました。京都府内では、現在の城陽市に、全長約180メートルに達する久津川車塚古墳が築かれました。二子山北墳は全長約40メートル、南墳は約34メートルと同時期の古墳と比べても突出して大きいとはいえません。しかし、二子山北・南墳には、豊富な副葬品が埋納されていました。北墳には、棺(ひつぎ)を納めるための埋葬施設が3カ所作られましたが、そこから鉄製の武器や農工具が出土しました。副葬品の一部は盗掘により失われていましたが、盗掘を免れた西槨(かく)からは、鏡や玉類、櫛(くし)、甲冑(かっちゅう)、盾などの副葬品が出土しました。南墳からも同様に豊富な副葬品が出土しましたが、北墳より新しい時期の副葬品である鋲留衝角付冑(びょうどめしょうかくつきかぶと)や馬に乗るための装備品の馬具が含まれていました。

 この二子山北・南墳は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓との伝承があります。『日本書紀』には、菟道稚郎子は応神天皇の子で、仁徳天皇の弟にあたるとされています。その名の通り、現在の宇治市あたりに王宮「莵道宮(うじのみや)」を構えていたとされます。「ウジ」という地名は本来「内」を意味するとの説があり、現在の「宇治市菟道(とどう)」は漢字表記を音読みしたものです。盗掘された豊富な副葬品の噂を聞いた昔の人たちが菟道稚郎子の墓と考えたのでしょうか。

二子山古墳南墳埋葬施設調査状況

 二子山北・南墳の築造後、この地域の首長墳の立地は、北側の五ケ庄地区に移ります。まず、直径約30メートルの円墳である瓦塚古墳が築造され、古墳時代後期には、二子塚古墳が築造されます。二子塚古墳は全長約112メートルの前方後円墳であり、墳丘は葺石(ふきいし)で覆われ、周囲に二重の濠(ほり)と外堤を備えます。墳丘と外堤には埴輪列が巡っていました。後円部では、礫(れき)を充填(じゅうてん)した巨大な横穴式石室の基礎遺構が見つかっています。二子塚古墳は、宇治古墳群で最初に築造された前方後円墳で、当時の京都府南部で最大の古墳です。

 二子塚古墳には、具体的な被葬者の伝承はありません。しかし、二子塚古墳の墳丘形状は、高槻市にある今城塚古墳とよく似ているという指摘があります。今城塚古墳は真の継体大王陵と目される古墳です。継体大王は、近江や越前に基盤を持ち、特異な経緯で大王に即位しました。この時期、百舌鳥・古市古墳群で巨大な古墳の築造が終焉(しゅうえん)するなど、大王墓と目される巨大古墳の消長からも、継体大王の即位は当時の中央政権に大きな変化をもたらしたことを示唆しています。この時期に宇治古墳群で初めて大型前方後円墳が築かれるのも、偶然ではく、中央の政治動向を反映したものと考えられます。

二子塚古墳航空写真

 この様に、交通の要衝に立地し、中央政権の動向にも呼応して築造された首長墳群として、国史跡に指定された宇治古墳群ですが、指定までの道のりは平たんではありませんでした。二子塚古墳は、大正時代の開発により後円部が破壊され、二子山古墳も、かつて大規模な土取工事が墳丘のすぐ近くまで迫ったことがありました。しかし、その都度、宇治市をはじめとする行政機関や関係者が遺跡の保存に努めたこともあり、今も大切に保護されています。現在、二子塚古墳は公園として整備されています。また宇治市歴史資料館にて、二子山北・南墳の出土品が4月19日まで展示されています。(文化財保護課記念物担当 川崎雄一郎)