完成したギャラリーを見学する野村克也さん(2018年3月16日、京丹後市網野町)

完成したギャラリーを見学する野村克也さん(2018年3月16日、京丹後市網野町)

 「俺があの世に行っても、飾ってもらえるの?ありがたいなあ。子どもたちの夢になってくれたらいいね」


 野村克也さんは2018年3月、古里の京都府京丹後市網野町に完成した「野村克也ベースボールギャラリー」の内覧会に訪れ古里への感謝を語った。当時82歳、しっかりとした口調だった。
 3歳で父を亡くし、2度もがんを患うなど病弱だった母親が、働きながら兄と野村さんを育てた。野村さんも、京都新聞の配達を長く続けて家計を助けた。「貧困家庭に育ち、母の苦労している姿しか見ていない。何とか楽にしてやりたい」と野球を始めた。
 美空ひばりさんのデビューに触発され、歌手を志して音楽部に入ったり、映画俳優に憧れてせりふを覚えた。「歌のセンスがない。この顔で俳優は無理。残ったのが野球」。中学時代は卒業生から用具を譲り受け、後輩のユニホームを借りて試合に出た。
 当時の峰山高グラウンドは狭く、山に向けてフリー打撃を行った。「夏の京都大会は3年間で2度勝っただけ。それぐらい弱いチームでした」。3年の時は単位の取れない部員もいて廃部の危機に陥ったが、生徒会長に立候補して当選、生徒指導部長に魅力を語って存続させたという。
 プロへの道は新聞がきっかけ。南海の選手募集を見つけて応募した。350人以上の中から7人の合格者に入ったが、野村さんを含む4人がブルペン捕手としての採用だったという。「全員、田舎者。熊本、和歌山、大阪からで全部住所に郡がついていた。純情で粘り強いということで採用された」
 夜は先輩の誘いを断り、合宿所で素振りを繰り返した。「いろんなことがチャンスにつながった。人生は分からない。見ている人は見ている。無駄な努力というのはない」と実感を込めた。「まさか、プロ野球で生きるとは夢にも思ってなかった。一言で言えば、チャレンジ精神ですかね。先のことは分からない」
 ギャラリーには、1961年のMVPトロフィーや自身が一番の思い出と位置づける三冠王のペナント、写真パネルが並ぶ。「野球をやっていて良かったなとあらためて感じた。育ててくれた古里に、恩返しをしないといけない。こんな田舎からでもプロ野球選手のスターになれるんだ、と考えてくれればありがたい」
 次世代を担う子どもたちに伝えたい思いがあるとも話していた。
 「球児を含め最近の若者には、夢を持ちなさいと言いたい。目標を達成するための手段が人間を成長させていく。『少年よ、大志を抱け』と大きなことは言えないけれど。少年よ、夢を抱け」