「ノムさん」こと野村克也さんが亡くなった。

 選手、監督としてプロ野球に残した功績は計り知れない。京都府網野町(現京丹後市)出身の、郷土が誇るヒーローだった。

 通算3017試合出場、2901安打、657本塁打、1988打点は、いずれも歴代2位。特筆すべきは大きな負担がかかる捕手というポジションだったことだ。

 米大リーグでも、捕手でこれほどの成績は見当たらないといわれる。始まりは無名のテスト生だったというのも驚きだ。

 持って生まれたものもあったのだろうが、何よりも野球に対する考え方、取り組み方が抜きんでていたのではないか。

 捕手としての野村さんを語るとき、よく引き合いに出されるのが、打者をほんろうさせた「ささやき戦術」だ。

 評価はいろいろあるだろうが、野村さんならではの頭を使った心理作戦だった。いわば勝つための知恵である。

 その姿勢は監督として、さらに大きく花開く。4球団を率い、3度の日本一に輝いた。

 データを重視して考え抜く「ID野球」や、戦力外になった選手を活躍させる「野村再生工場」など、見事な手腕をみせた。

 根性頼みの精神論か、面白みのない管理野球か。そんなイメージがあった日本のプロ野球を、大きく変えたといえるだろう。

 しかも他球団の良い選手を引っ張ってくるのではなく、決して恵まれているとはいえない戦力でいかに強いチームに勝つかが、野村さんの真骨頂だった。

 その原点は丹後にあったのではないか。貧しい家庭に育ち、母親を楽にさせたいとプロ野球の道に挑んだことはよく知られる。

 南海に入団した1954年は日本の高度経済成長が始まろうとしていた時期だ。

 地方から東京や大阪へ集団就職した若者たちが、生き抜くすべとして知恵を働かせる―。そんな姿とも重なって見える。経済成長を支えるエネルギーだった。

 「ひっそりと日本海に咲く月見草」。自身を表した言葉が多くの人の印象に残ったのは、そのためだろう。

 21年前、母校の峰山高が甲子園出場を決めたとき、色紙に思いを書いて激励したという。

 東京一極集中が進み、地方が置かれる状況はなお厳しい。野村さんの足跡に励まされる人は、今でもたくさんいるに違いない。