たどころ・まさゆき 1956年生まれ。国際政治学。京都大で高坂正堯氏に師事。著書に「越境の国際政治」など。雑誌「アステイオン」91号で編集委員長として「100年後の日本」を特集。

 京都は大学が多いので、2、3月は受験生の姿をよく目にする。大阪で生まれ育った私も大学生活は京都で過ごしたので、45年前にはそういった受験生の一人だった。特に京都や関西に思い入れがあったわけでもないが、若い頃東京の先生から「東京に出てきたい?」と聞かれて、キョトンとしたことを思い出す。関西にいて、何も困ったと思ったことがなかったのである。だが、そんな私ですらいつの間にか東京で仕事をすることになってしまった。

 東京への一極集中は、文化面でもその傾向が顕著である。だが、東京圏以外の人々がみな、東京の大学に子弟を送り出すことは不可能だ。

 それ以上に文化拠点が複数あることを大切にすべきではないだろうか。イギリスでも、オックスフォードやケンブリッジという大学町が有名である。アメリカに至っては、有力大学は全土に分布し、首都ワシントンは、文化的にはむしろ退屈なところである。

 私が今勤めている慶應義塾を開学した福澤諭吉が学んだのも大阪の適塾である。その適塾では、江戸とは違って幕府に雇用される見込みもないので、立身出世ではなく純粋な知的な関心が、塾生達の原動力であったと福澤は自伝で楽しげに回顧している。考えてみれば、江戸時代には各地に藩校があり、その上私塾があって切磋琢磨(せっさたくま)していた。それが明治維新やその後の近代化を支える知的エネルギーに資した部分は大きい。

 それに引き換え今の大学は、一方で受験偏差値や世界大学ランキングの番付といった一元的な指標に振り回されながら、ろくに日本語の文章も書けなかったり分数の計算もできなかったりする学生をかかえて呻吟(しんぎん)している。肝心の学問はこれでよいのだろうか。

 大学や学問のあり方をめぐる問題は多様かつ根深く、日本に限ったことでもないが、ともあれ、今の東京は物事をじっくり考えるには、あまりにも巨大で、あまりにも忙しい。

 他方、文化的・知的活力には、都市的な雑居性も必要で、大学だけがぽつんとあっても知のシナジー効果は出てこない。適度な規模、適度な政治からの距離、そして文化的集積とそれを支える経済的基盤が必要である。もし関西で大学を支えられなければ、日本の他の都市はもっと条件は厳しかろう。

 過去の文化的資産を商品として売る博物館のような京都よりも、知的な再生産がされる場所であってほしい。京都駅から京都大学へ向かう途上、感染症騒ぎのせいか、少しすいているバスの中で中国語の車内アナウンスを聞きながらこんなことを考えた。(慶応大法学部教授)