1991年8月に京都新聞文化フォーラムで「日本の中のシルクロード」と題して講演する松本清張氏(京都市内のホテル)

1991年8月に京都新聞文化フォーラムで「日本の中のシルクロード」と題して講演する松本清張氏(京都市内のホテル)

 松本清張のファンと公言する京都市出身のみうらじゅんさん(62)が監修した本「清張地獄八景」(文春ムック)が、清張生誕110年の昨年に刊行された。昭和を代表する作家清張の魅力は今なお古びるどころか、新たな読まれ方を待っているのかもしれない。

 清張作品には京都が舞台の作品もある。すぐに浮かぶのは「いもぼう」が登場する短編「顔」や、送り火が鍵を握る「火と汐」だ。
 自身も京都とは縁が深い。自伝「半生の記」(新潮文庫)によると、作家として世に出る前の戦後間もない頃に三男が生まれ、一家8人を養うため新聞社広告部の仕事のほかに、ほうきの仲買を始め、福岡から夜汽車で京都を訪れた。粟田口の店と取引ができたついでに、見本のほうきを突っ込んだリュックサックを背に京都見物で歩いた。清張、30代後半。生活の苦しさの中、古都でつかの間の空想に浸ったのだろうか。
 膨大な作品に紛れて、あまり脚光を浴びないが、京都の古跡を独自の視点も交えて紹介するガイドブック「京都の旅」(光文社文庫)も、考古学者の樋口清之氏と共著で2冊出している。古代史について自説を展開した著書もあるだけあって、京都は清張にとって興味の尽きない都市だったに違いない。
 そして、何より深いきずなを結んだ盟友が京都にはいた。在野の歴史学研究者である藪田嘉一郎。清張が小説「火の路」を新聞紙上で連載するにあたり、ブレーンとして頼った。
 「素人」の研究に無視を決め込む学界の閉そくに反発すら感じた清張が、在野の立場から新説を数々ぶち上げて一部から「怪物」と恐れられた藪田の存在を知った時、きっと霧の中で同志を見いだした思いだったのではないだろうか。
 それは藪田も同じだった。藪田が若い頃に書いた易学に関する著書では「藪田曜山」という号を名乗っていた。ところが、清張と出会ったのちの晩年は「燿山」と改称していたことを、歴史考証家の若井朝彦さん(59)=上京区=に教えられた。曜の「へん」が「日」から「火」に変わっていた。「『火の路』にちなんだのではないか。清張さんとの出会いに心から感謝していたのでしょう」。号の変化を、清張は果たして知っていたのかどうか。
 デビューが遅かった清張は恐るべき執筆量で無数の作品を発表し、次々と新たな分野に挑んだ。時に孤独とも言える作家の道行きを、京都にともった「火」が温かく照らしていた。