祇園・円山公園から岡崎・平安神宮へと通じる神宮道を歩くと、知恩院の三門が高くそびえ立っています。その先に立つ知恩院黒門の向かいに、良正院(りょうしょういん)があります。いわゆる観光地からほど近い位置にありながら、その名前を知る人はかなり歴史に詳しい人かもしれません。通常は一般公開されておらず、境内は静寂を保っていましたが、今は徐々に工事の慌ただしさに包まれつつあります。

 良正院は浄土宗総本山知恩院の塔頭(たっちゅう)寺院で、もとは浩翁軒、浩翁院と称しました。寛永年間(1624~44)、備前岡山藩主池田忠雄(ただかつ)が、京都で没した生母督姫(とくひめ)の菩提(ぼだい)を弔うために、寺域を広げて伽藍(がらん)を建立し、寺号を督姫の法号に基づき良正院と改めたと伝わります。なお、督姫は徳川家康の次女であり、夫の池田輝政(てるまさ)は姫路城を築城したことでよく知られています。

本堂 外観(南西より)

 本堂は、書状(文書)や大棟鬼瓦に記された箆(へら)書から、寛永8(1631)年に建立されたことがわかります。時代的な特徴を多く備え、良質な材料や当初の障壁画が伝わり、同時期に建立されたとみられる表門とともに、国の重要文化財に指定されています。入母屋造り・本瓦葺(ぶ)きで、正面に唐破風造りの玄関が接続します。内部は、手前に3室、奥に3室を並べた六間取り方丈形式の平面を基本とし、その周囲に広縁や落縁がとりつきます。奥の3室のうち、中央の仏間に本尊阿弥陀如来像を安置します。仏間西側の部屋は床を一段高くし、押板床・違棚・付書院を備えた上段の間で、さらに仏間東側の部屋にも畳床を設けます。内部の壁や建具(襖(ふすま)や引き戸)に張られる障壁画は、狩野三益(さんえき)筆と伝わります。三益は狩野派の絵師で、狩野山楽の実子・狩野伊織(別名‥山益(さんえき))と同一人物であることが指摘されていますが、いまだ謎の多い人物です。

建立年代を示す「寛永八年」と記された鬼瓦(本堂大棟東)
本堂 内観(東より)

 本堂は約390年前に建てられてから大規模な修理を受けておらず、全体的に傾き、随所が傷んでいます。屋根瓦は古いものが長く使い続けられ、耐用限度に達しているものも多く、また内部の障壁画は、大きな亀裂が生じ、建具の開け閉めにも苦労するような状態です。さらに2018年の台風21号では、傷んでいた屋根側面の彫刻が脱落してしまいました。今回の修理では本堂の屋根瓦を全て降ろし、その下の木部や障壁画の修理を行う予定で、現在は本格的な解体作業に向けて準備を進めています。

 建物本体については、修理の方法を検討するため、材料の傾きや高さの乱れを調査し、修理が必要な部材の確認等を行っています。長い歴史の中で改造された箇所については、あとから付け加えられた部分を丁寧に解体し、昔はどのような姿であったのか、痕跡等を調べています。また、これらの作業と並行して、記録写真を撮影しています。

建設中の丸太組素屋根

 外から見える作業としては、本堂全体を丸太組の「素(す)屋根」という仮設の建物で覆う工事をしています。素屋根は、建物の保護という役割とともに、作業を行うための足場や資材の運搬、材料の保管等の役割を担い、工事の効率性を左右する非常に重要なものです。

 京都府内の文化財建造物等の修理現場では、丸太を番線(鉄線)で縛って組み上げる、伝統的な丸太組工法の素屋根が多く用いられています。以前は広く用いられ、今でも街中で簡単な丸太組足場を見かけることもありますが、現在では、鋼製の単管や規格材を組んだ足場に取って代わられています。丸太は、建物や土地の形状に合わせて自由に組むことができます。また、鋼材に比べると柔らかく、万一建物に当たることがあっても、建物が大きな損傷を受ける可能性が低くなることなどにメリットがあります。ただし、大きな素屋根を丸太組で作るには経験に基づいた高い技術が必要で、施工できる職人は少なくなっています。文化財を未来にわたって守っていくためには、文化財そのものの保存に加えて、文化財に携わる職人の技術の継承が欠かせません。

 良正院の素屋根建設の状況が見られるのはあとわずかの期間ですが、その素屋根の中ではこの先数年をかけて本堂の修理工事が行われます。今回の修理により、建物が健全な状態になり、また新たな発見があることが期待されます。(京都府教育委員会文化財保護課建造物担当 栁晴子)