「人間って助け合って生きている。障害者やから健常者やからという理由はつけんでええやん」と語る吉田さん(東京都港区・日本財団パラリンピックサポートセンター)

「人間って助け合って生きている。障害者やから健常者やからという理由はつけんでええやん」と語る吉田さん(東京都港区・日本財団パラリンピックサポートセンター)

 1970年代に成田空港(千葉県成田市)の建設反対闘争に参加し、地下壕(ごう)の落盤事故で下半身不随になった京都市出身の男性が25年前に障害者カヌーの団体を立ち上げ、日本協会会長として半年後に迫った東京パラリンピックに備えている。車いすに乗っていても水の上では健常者と同じ目線でいられるカヌー。人と人が助け合う、分け隔てない社会が2020年の後に訪れることを願っている。

 日本障害者カヌー協会会長の吉田義朗さん(67)=川崎市=には消せない記憶がある。洛陽工高(現京都工学院高)を出て向かった先は、空港建設のため農地が強制収用されようとしていた成田の「団結小屋」だった。4千メートル滑走路に向けて一坪共有地から仲間と穴を掘り始めた。「地下5メートルぐらいの赤土と水がたまる層」に潜んでいたら工事用のブルドーザーが真上を通り、落盤が起きて生き埋めになった。かぶっていたヘルメットが顔の前にずれて空洞ができたため息を吸え、死を免れた。だが両脚の感覚はもうなかった。
 39歳の時、「障害者のためのカヌー教室がある」と知人に誘われ、奈良県の吉野川で艇に乗った。「水の上は自由で、アメンボのような気分になれた。健常者も障害者も目線が一緒になる」。黒部川や四万十川をこぎ、カナダの大河ユーコン川は1週間ほどかけて源流からツーリングした。
 1995年に京都で障害者カヌー協会を設立した。遊びの延長で活動していたが、カヌーが2016年のリオデジャネイロ大会からパラリンピック競技に採用されることが決まり、その数年前から選手強化を始めた。仲間と競技規則からコースまで手作りし、国内大会を開催。「最初は選手が4人。ようやく20人ぐらいに増えた」と歩みを振り返る。
 3年前に組織を法人化し、日本財団パラリンピックサポートセンター(東京都)のオフィスに他のパラ競技団体とともに事務局を構えている。自身も住み慣れた関西を離れた。「パラスポーツは盛り上がっているが、地方に行くと広がっていない。東京パラリンピックによって『できる障害者』と『できない障害者』に分かれていかないか」と急速な二極化を懸念する。
 先日、脳性まひの50歳ぐらいの女性が初めてカヌーに乗り、表情が変わったという。「すごいうれしかった。パラリンピックのメダルを取るよりもそっちの方が楽しい」と声が弾んだ。人と人が助け合う、平等な世の中であってほしい。「あの頃から、やってること変わらへんで」。原点は、成田にある。