原文は渡辺実校注『新日本古典文学大系25』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している。
 

 伏見稲荷に一念発起して参詣したとき、中の御社のあたりで、もう苦しくてたまらないのを、何とかこらえて登っていると、後から登って来る者どもが、いささかもしんどそうな様子も見せず、ずんずん進んで見る間に抜いて行き、先に参拝するのは、とても見事なことよ。

 旧暦二月の初午(はつうま)の日、まだ暗い内に、急いで出発して登り出したが、まだ坂の途中を歩いているところなのに、いつしか時は巳の刻ごろ(午前十時前後)になってしまった。苦しさに加え、だんだん暑くなってきて、本当につらく切なくて、どうして、こんなふうでなく、もっといい日もあろうものを、なんのためにわざわざ今日参詣したのだろう、とまで思い涙も落ちて、くたびれ果ててて休んでいると、四十過ぎぐらいの女で、旅の壺装束なども身にまとわず、ただ着物の裾をたくし上げただけの人が、「私は七度詣でをしてますの。もう三度参拝したわ。あと四度ぐらいは何でも無い。未の時(午後二時前後)には終えて帰れるはずよ」と、道で会った人に語りかけて下山していったのは、普通の場所だったら目にもとまるはずのない女だけれど、あの時は、ああこの人の身に、たったいまなりかわりたい、と思ったことだった。

吉田初三郎絵「伏見稲荷:全境内名所図絵」(京都府立京都学・歴彩館所蔵)
「大正広重」と呼ばれた、吉田初三郎の鳥瞰図の一つ。大正14(1925)年の刊行。山頂近くに赤札で「二ノ峰」も描かれる。初三郎の国内外に及ぶ独特の鳥瞰図については、国際日本文化研究センターでも収集・データベース化と文化誌的研究を進めている

つらい参詣、体力のなさに涙

 

 中の御社(みやしろ)は、稲荷の三ケ峰(みつかみね)(上社、中社、下社旧跡)の一つ。二の峰にあたる。康保三(九六六)年九月、藤原道綱母は、この中の御社で「稲荷山多くの年ぞ越えにけり祈るしるしの杉を頼みて」と詠んだ(『蜻蛉日記』)。しるしの杉は、伏見稲荷の神木の杉の枝で、久しく枯れなければ願いが叶(かな)う。現在も初午大祭のゆかりである。

 二月(きさらぎ)の初午は、伏見稲荷の神が三ケ峰に鎮座した日だという。今の暦なら三月だ。しんどい山登りなのに、暑苦しくさえなってきた。なんでこんな日に、と清少納言は愚痴る。わざわざ四十過ぎの女と年齢をいうのは、老人なのに、という含意である。日本では古来、四十から長寿のお祝い(算賀)をする。その一方で『枕草子』は「蟻通明神(ありどほしのみやうじん)」の由来ををめぐって「昔(むかし)おはしましける帝(みかど)の、ただ若き人をのみおぼしめして、四十になりぬるをば、失(うしな)はせ給ひければ」という棄老の伝説を語る(「社(やしろ)は」の段)。

 『今昔物語集』巻二八の巻頭話も「衣曝(きさらぎ)ノ始午(はつむま)ノ日ハ、昔ヨリ京中ニ上中下ノ人(身分を問わず)稲荷詣トテ参リ集フ日也」と始まる。近衛府で舎人(とねり)として働く茨田重方(まつたのじげかた)は、生来の色好み。「妻(め)モ常ニ云(い)ヒ妬(ねた)ミケルヲ」、稲荷の初午にやってきた「濃(こ)キ打(う)チタル上着ニ、紅梅・萌黄(もえぎ)ナド重ネ着テ、生(なま)メカシク歩」く女に、早速目を付け、口説き始める。自分は既婚者で「賤(あやし)ノ者持チテ侍レドモ、シヤ顔ハ猿ノ様ニテ、心ハ販婦(ひさきめ)(猿のような顔をした下劣な女)ニテ有レバ、去(さ)リナムト思ヘドモ」、着物のほころびを縫ってくれる人もすぐにはみつからない。いい人がいたら乗り換えようと、お声がけしたのですよ、などと。女は、私も決まった人はいない。夫の希望で奉公をやめて家庭に入ったのに、彼は田舎で死んでしまった。ここ「三年ハ」、良き伴侶に巡り会えますようにと、稲荷の「御社ニモ参リタル也」。独身で、男を捜しているのか…。ならば、と調子に乗る重方に、女は突如、「重方の髻(もとどり)ヲ、烏帽子超(こ)シニ」「ヒタト取リテ、重方ガ頬ヲ山響ク許(ばかり)ニ打チツ」。女は重方の妻であった。『今昔』巻二八は、柳田國男が「鳴滸(をこ)(=馬鹿げた笑い)の文学」として注目した笑話集だが、同話も以下、間抜けな夫と妻の言い立てが爆笑を誘う。

 『今昔』の別の巻(三十―六)には、まっとうな類話もある。近衛府の右少将が、国司の「向腹(むかひばら)ノ姫君」(本妻の娘)と結婚するが、病(やまい)で死んでしまう。悲しみに暮れる少将は、亡妻に似た人と出会いたいとひたすら願った。すると「二月ノ初午ノ日」、稲荷に参詣した帰途に「年十七八ノ程」の「姿・有様」も「着物」も魅力的な、気高く美しい大和の娘と遭遇する。伏見稲荷は、京都の七条辺に生まれた娘の「産神(うぶすな)」だ。徒歩(かち)で「稲荷ヘ参ラムトテ、大和ヨリ京ニ上」って来た。市女笠(いちめがさ)の下から覗くと娘は、死んだ妻に「少シ似」て、より一層「愛敬付(あいぎやうづ)キ浄気(きよげ)ナル事増(まさり)タリ」。彼はすぐさま恋に落ちた。実は彼女は、少将の亡妻の異母妹で、長谷寺に申し子をした夫婦に引き取られて育ったのだった。

 この逸話に長谷寺が出てくるのは、偶然ではない。永承元(一〇四六)年の十月下旬、道綱母の異母妹の子・菅原孝標女(たかすえのむすめ)は、長谷寺に三日参籠した。最終日の夜更けにふとまどろむと、観音の御堂の方から「すは、稲荷より賜はるしるしの杉よ」と「物を投げ出づるやうにする」。はっと目を覚ますと夢だったと『更級日記』は誌している。

 「匡衡(まさひら)衛門」(『紫式部日記』)と呼ばれた、赤染衛門の逸話もある。夫の大江匡衡が浮気をして「稲荷ノ禰宜ガ娘ヲ語ヒテ愛シ思ヒケル間、赤染ガ許(もと)ニ久(ひさし)ク」帰らない。そこで赤染が「稲荷ノ禰宜ガ家ニ」、「我が宿はまつ(松と待つをかける)のしるしもなかりけり杉むらならば尋ねきなまし」という歌を詠んで届けると、匡衡は、愛人関係を解消して、そそくさと赤染のもとに帰った(『今昔物語集』巻二四―五一)。この歌の本歌は「わが庵(いほ)は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉立る門(かど)」(『古今集』)なので、『赤染衛門集』には、伏見稲荷ではなく「三輪の山のわたりにや」という。三輪山にも、しるしの杉がある。

 

伏見稲荷大社(京都市伏見区)

朱も鮮やかな大鳥居、楼門を構えた伏見稲荷大社の参道(京都市伏見区)
伏見稲荷大社地図

 壮大な鳥居、楼門、千本鳥居…。鮮やかな朱に象徴されるお稲荷さんは、年中、国内外の参拝客でにぎわっている。

 千本鳥居をくぐり、杉木立の石段や石畳の参道を登っていくと、その途中にいろいろな神の名の社(やしろ)が現れる。立ち並ぶろうそくの炎が揺れ、その奥には、行者の滝も。ふもとの参道や社殿の雰囲気とは打って変わった稲荷山の姿が見えてくる。

 大勢の人が休憩する四つ辻から、清少納言の歩いた神蹟の三の峰、二の峰、そして頂上の一の峰をめざす。驚くのは、それぞれの峰の社周辺に築かれたおびただしい数の「塚」である。個人がまるで思い思いに願いを託す自らの神を祭っているようで、その前には祈る人の姿があり、何かを念じる声も聞こえてくる。

 今も変わらぬお稲荷さん人気。それは、古来さまざまな人々の願いに応えてきたこの山の多様な神々の存在にこそあるのだろう。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)