日本人のノーベル文学賞候補というと、まず名前が挙がるのは村上春樹さんだが、この人を推す声もよく聞かれた。その一方で、研ぎ澄まされた文体は「翻訳できない」ともいわれたようだ▼先日亡くなった古井由吉さんである。1971年に「杳子(ようこ)」で芥川賞に選ばれ、個人をみつめる「内向の世代」の代表格となる。90年代にかけて国内の主な文学賞をほとんど受賞し、その後は自ら賞を辞退した▼「内向の世代」は学生運動の退潮などからイデオロギーや社会問題と距離を置いていると批判された。経済成長が終わり、若者たちが「しらけ世代」と呼ばれたころではなかったか▼原点にあったのは戦争体験という。7歳のときに東京の大空襲で一家が被災した。死を覚悟した母親らが「皆一緒に死にましょう」と自分を取り囲む―。初期の作品で描いたそんな記憶は、たしかに思想より前にある根源的なものだったのだろう▼東日本大震災後は空襲と大災害を重ねた。「圧倒的な力に一方的にやられる」「受け身の恐怖というものを、ほそぼそながら伝える必要がある」と▼お笑い芸人の又吉直樹さんをはじめ、ずっと若い世代の作家たちから敬意を集めたのが印象的だった。日常を深く掘り下げていく筆致が、先の見えない時代に刺さったのかもしれない。