自室でくつろぐ生前の鈴木重遠さん(右)と、妻の那智子さん。この後、重遠さんは地域の健康マージャン教室で仲間との交流を深めていく=2012年2月20日、京都市山科区

自室でくつろぐ生前の鈴木重遠さん(右)と、妻の那智子さん。この後、重遠さんは地域の健康マージャン教室で仲間との交流を深めていく=2012年2月20日、京都市山科区

生前の鈴木重遠さんは、健康マージャンの大会で好成績を収めていた。妻の那智子さんは、重遠さんが獲得した金メダルを手元に残した(4日、京都市山科区)

生前の鈴木重遠さんは、健康マージャンの大会で好成績を収めていた。妻の那智子さんは、重遠さんが獲得した金メダルを手元に残した(4日、京都市山科区)

 東日本大震災の津波で宮城県東松島市の自宅が被災し、京都市山科区の市営住宅へ避難した男性が昨年11月、同区の病院で息を引き取った。団地の一室をついのすみかとし、がんと闘いながら地域の健康マージャン教室で住民との交流を深めた。男性が残した日記には、ふるさとへの愛着や仲間への感謝が記されていた。震災は11日で発生から9年となる。

 鈴木重遠(しげとう)さん=享年(88)。2011年3月11日、仙台市に外出していた重遠さんは、避難所へ逃げた妻の那智子さん(86)と2日後に再会できた。自宅の損壊はひどく、住める状態ではなかった。新たな住居の相談に仙台市の役所を訪れ、避難者受け入れの京都府職員が応対した偶然の縁で、京都へ越してきた。

 12年2月、重遠さんは、避難者を取材していた京都新聞社の記者に「友人の1人でもつくりたい」と願いを語っていた。もともと大のマージャン好き。JR山科駅前などで開かれていた健康マージャン教室へ通うことが習慣となった。

 「ここは彼にとって竜宮城でした」。京都市山科区の市営住宅の一室で、鈴木重遠(しげとう)さん=享年(88)=の妻、那智子さん(86)は笑顔を浮かべた。骨つぼのそばから、重遠さんが避難後に書き始めた日記帳を取り出した。「ここの人に、どれだけ大事にされたかが分かります」

 3冊のノートをきちょうめんな字が埋めていた。大会で優勝した。バレンタインのチョコレートをもらった-。健康マージャン教室で出会えた仲間との交流ぶりが、子細に読み取れた。

 「やっぱり松島の海苔(のり)がおいしい」(2016年8月5日)「塩釜の味が久しぶり」(17年12月11日)

 日記には故郷の宮城県の地名が何度も登場する。教室仲間の和泉和子さん=山科区=は、いろりや床の間のしつらえにこだわって建てた自宅を、重遠さんが懐かしむ姿を覚えていた。「帰りたいやろ?」と尋ねた和泉さんに、重遠さんは「うん」とだけうなずいたという。

 同じく教室仲間で、重遠さんが通い始めた12年から仲を深めてきた初田福三さん(70)=同区=は、2年ほど前、「京都にずっと住もうと思っている」と重遠さんから聞いた。「ご飯が食べられて、お風呂に入れて。今の家で十分」。東北なまりの言葉に関西弁が交じるようになっていた。

 「本当に京都人になったのかナーと云(い)う気分」(17年6月19日)。避難者への住居無償提供が終わり、市営住宅の家賃が発生し始めるのを前に、重遠さんはしたためていた。

 日記からは大腸や肝臓のがんなどで入退院を繰り返した闘病の経過も浮かぶ。「元気ですごせる様祈るだけ」(18年2月22日)。昨年5月には、胆管やすい臓にがんが見つかり余命半年と告げられた。退院に際して「外の空気の美味(おい)しい事(中略)生きている事の実感を知る」(19年7月9日)とつづっている。

 一方、7月2日には、上向かない体調に、手元にあった教室の参加チケットと電車の回数券を仲間たちへ届けるよう、那智子さんに頼んだ。「すこしでも役に立てばよいが(中略)皆に渡して呉(く)れたようだ。安心する」。同月10日、仲間からお礼に佃(つくだ)煮が届く。「嬉(うれ)しい友情である。感謝のみ」。日記は2日後の12日を最後に途絶えた。

 重遠さんは11月6日に亡くなった。那智子さんは京都で知り合った僧侶に葬儀を頼んだ。生前、京都での納骨を決めていた。那智子さんによると、重遠さんは「友達がいっぱい京都にいるから、友達のそばにいたい」と話していたという。

 今年2月25日、那智子さんはマージャン教室を訪ねた。「いい人生を送らせてもらいました」。代表者に感謝を告げ、重遠さんが大会で獲得したトロフィーを返却した。手元には一つ、重遠さんの金メダルを残した。
 暖かくなるのを待って、4月中には大谷本廟(東山区)に遺骨の大部分を納める。一部は、震災前に購入していた仙台市内の墓に入れるという。