さの・とうえもん 1928年生まれ。仁和寺などの庭造りに従事してきた造園業・植藤16代目。京都迎賓館の庭も手がけ、桜の古木を描いた大皿を小松華功さんが制作して納めた。

 昭和20(1945)年3月、16歳の時に肺炎にかかった。高熱が続いて、長く伏せっていた。息ができずに、うなされていたらしい。当人は夢見心地で、花畑が見えていたのを思い出す。戦争のため薬がなく、医者もいない。火鉢にやかんをかけてじっとしているのが養生やった。

 京都農林学校を繰り上げ卒業し、満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の学校(茨城県)で軍事訓練を受けた。その後、舞鶴港から大陸へ出発する直前やった。京都市の自宅に一時帰宅していたので、気が抜けてたんやろな。

 肺炎にならずに敗戦前の中国に渡っていれば、どうなっていたか。生きて戻れたかどうかもわからない。人生の分かれ道や運命は、ちょっとしたきっかけで変わるものや。

 人との出会いも偶然が大きい。植藤造園(京都市右京区山越中町)の近所に、染織家・志村ふくみさんがお住まいや。梅や桜の木を燃やした灰が染めの役に立つと聞いた。春や秋などの季節、木の種類によっても灰の性質は異なるらしい。

 桜の木を通じたつきあいや。灰を志村さんが取りに来られる時もあれば、わしが持って行く時もあった。

 われわれは何でも農業の知識で判断するから、「木の灰は肥料」と思ってきた。じゃがいもに灰を付けて植えていたし、焼き芋では灰が付いているとうまい。志村さんからは、灰のあくが染織に使えることなど、それまで知らなかった桜の木の新たな一面も教えてもろた。

 四角四面で木に向かって仕事をするだけではなく、「間」をいかに使うか。仕事の合間に、遊びをいかに取り入れるか。合間を見つけて30年近く、左京区広河原に通ってきた。陶工の小松華功さんのところや。

 そもそもは祇園で食事していて知り合った。カウンターにいた丸坊主の男と話すと「広河原で焼き物屋をやっている」と言う。手術を受けて坊主頭にしていたところやった。

 陶芸と聞いて、ぴんときた。祖父(14代)は親しかった大谷光瑞さんの紹介状をもろて、全国各地の銘木を集めて回った。親父(15代)は日本画家の堀井香坡(こうは)さんに頼み、100種類以上の日本列島の桜を描いてもらって画譜「桜」を自費で出版した。紙なら何百年かは残るやろ。

 では陶器はどうか。桜を後の世に伝えられる器ができひんやろか。小松さんに、あれやこれやと思いを伝えてきた。桜の木も使って釉薬(ゆうやく)をつくってもらい、わしのところで桜の絵を描いてきた絵師に頼んで器に描かせている。帯や着物も少しかじってきたが、作るならぜひほんまもんを作ってほしい。ほんまもんやからこそ、求める人があると思う。(桜守・植藤造園会長)