佐藤卓己さん(京都市中京区・京都新聞社)

佐藤卓己さん(京都市中京区・京都新聞社)

京都市内の店舗でもトイレットペーパーやティッシュなどの売り切れが続いた(3月2日)

京都市内の店舗でもトイレットペーパーやティッシュなどの売り切れが続いた(3月2日)

 マスクの次はティッシュペーパーがなくなる。お湯をたくさん飲めば感染予防になる-。新型コロナウイルスをめぐって、根拠のない誤情報やデマが飛び交い、人々の行動にまで影響を及ぼしています。こうした状況をどう理解したらよいでしょうか。「流言のメディア史」などの著作で知られる京都大教授の佐藤卓己さんに聞きました。必要なことは「あいまいな情報に耐える力」だと説きます。

 -いま人々は、未知の状況に直面し、パニックになっているように映ります。どこかでウソだと思いながらも、非合理な行動を取ってしまう。

 果たしてパニックでしょうか。一人ひとりの消費者の立場で考えれば、手に入らなくなる前にモノを買っておくという行動は、極めて合理的な選択です。責められることではないでしょう。ただ、個々の合理的行動が集約された時に、不合理な全体状況が生み出されているだけです。だから「パニックになるな」というメッセージは有害無益です。現状がパニックだと認識した人々は、ますます「買いだめ」に走るでしょう。それが合理的な自己防衛なのですから。
 メディア研究では、情報が「正しいか」「間違っているか」ということよりも、情報の「効果」や「影響」に関心を注ぎます。その視点から言えば、「間違った情報です」「デマに惑わされるな」という言葉よりも、「在庫は豊富です」「やがて価格が安くなる」という指摘の方がはるかに有効です。

「正解」ない現状

 -とは言っても、あふれる情報を冷静に、批判的に捉えることも大切ではないでしょうか。

 そこをいま強調しても、あまり意味がないと思います。「メディア・リテラシー」の議論で、批判的思考という言葉が使われますが、要は「疑ってかかれ」ということですね。そうすると「正しい情報」を発信するソースも疑うことになる。そもそも今回の新型コロナウイルスの対処に、まだ絶対的な「正解」はないわけでしょう。専門家でも意見が分かれています。情報を批判的に吟味しようにも、かなり高度な医学的知識や科学的理解力が必要になります。果たして一個人の「批判力」で対応できるでしょうか。

情報構築の過程

 -そうすると、デマや流言があふれる状況はどうすれば良いのでしょう。

 見方を変えてみてはいかがでしょうか。流言、うわさが広がるのは、病理現象ではなく健全な社会の状態である、と。米国の社会心理学者タモツ・シブタニ(1920~2004年)は流言を「あいまいな状況にともに巻き込まれた人々が自分たちの知識を寄せあつめることによって、その状況について有為な解釈を行おうとするコミュニケーション」と定義していますが、今回も同じように考えてみる。そうすると、いまSNS(会員制交流サイト)などで広がる流言も、情報崩壊ではなく情報構築のプロセスと捉えることができます。
 評論家の清水幾太郎(1907~88年)はかつて、流言を「潜在的輿論(よろん)」と考えました。大衆感情としての世論(せろん)ではなく、公的意見としての「輿論」です。意見には責任が伴います。ウェブ時代とは、だれもが「受け手」であると同時に「送り手」でもある時代です。もはや個々人もデマの「被害者」として免責される存在ではなく、発信する責任を問われているわけです。

受け手の模範示せ

 -そうした時、政府や専門家の指示や意見、あるいは新聞やテレビといったマスメディアの情報発信は、どんな役割を果たすのでしょう。

 政府やメディアに判断を丸投げし、絶対的な「真実」を提示してもらって、それに従う社会は果たして望ましいでしょうか。中国のような強権的な情報統制も、結果的に優れた成果を生むことはあり得ますが、民主主義的とは言えませんね。デマや流言を厳しく取り締まる社会というのは、見方を変えれば言論統制の社会です。
 まず、流言が社会にあふれているという現実を受け止め、その「あいまいな状況」で思考停止せず、耐えていく力が求められているように思います。真実か、正解か、ぎりぎりまで熟慮し、最終的には自分の判断で、責任を持って行動を決めなければならない。
 そうした時に、新聞やテレビも、「正しい」情報の発信者として振る舞うだけではなく、自らも情報の受け手の一員として模範となる姿勢を示していくことが大切になってきます。どのように情報を集め、分析しているのか、そのプロセスをメディアが自ら示すことです。
 「ポスト真実の時代」と言われますが、悲観的に捉える必要はありません。極端な話、AI(人工知能)によって、客観的で信頼できる情報空間が実現したとして、それは人間にとって幸せな空間でしょうか。むしろ「あいまいさ」こそが、人間らしさの最後のよりどころではないでしょうか。落ち込んでいる人がいる時、真実を突きつけるのではなく、ウソでも優しい言葉をかける、それが人間でしょう。