のろ・せい 1979年生まれ。専門は仏教学、華厳思想など。浄土真宗本願寺派総合研究所研究員などを経て現職。NPO法人京都自死・自殺相談センター理事。共著書に「日本仏教と論義」。

 地下鉄サリン事件から四半世紀を迎えた。高校生だった私にとって、テレビに映し出された惨劇はけっして忘れることのできないものだが、今の大学生にはもはや生まれる前の出来事である。現代の若者にとって宗教とはどのようなものだろうか。

 私の勤務先は西本願寺にルーツをもつ大学である。建学の精神が浄土真宗の思想であり、すべての新入生が仏教を必修する。あくまで印象論にすぎないが、学生たちの宗教・仏教に対するイメージは可もなく不可もなくといったところ。歴史上の一コマとしての仏教といったうけとめである。悩みをもたないわけではもちろんないが、自身の課題とは無関係というのが大半であろう。

 ところが彼らは4回生のある時期に、突如として仏教の学びと自らの人生との関係を認識せざるをえない経験をする。就職活動である。

 先日、一人の学生が研究室にやってきた。航空会社の客室乗務員に憧れ、就職活動の準備を進めてきたという。語学力も相当なもので、周到な準備が奏功したのか、最終面接までこぎつけた。ところがその場で尋ねられたのは、「仏教の勉強が客室乗務員にどのように生かせますか」というものであった。思わず絶句し、悔し涙を流したという。「どう答えたらよかったでしょうか」と相談され、うーんと悩んでしまった。

 仏教は世俗的な論理を超えた「仏の視点」という新たな視点を提示する教えである。したがって社会の役に立つか否かという発想そのものがなじまない。しかし、そのうえで学生に伝えたいのは、むしろそうした自らの論理を超えた視点の学びこそ、社会で生きていくうえで重要ではないかということだ。

 ふだん私達は確固とした自我をもった「自分」が存在し、それに基づいて世界を認識し、物事を判断していく。しかしそうした自分の認識や判断を絶対的なものとして固執することによって苦しみが生まれてしまう。そうではなく柔軟に、さまざまな方向から物事を捉えていく大切さを仏教は説いてきた。

 客室乗務員として多様な国籍や言語、ジェンダー、そして宗教をもつ人々と関わるとき、実は語学力やサービス力の前提に位置づけられるものこそ、自分勝手な思い込みを離れた柔軟な視野であろう。

 悲惨な事件を生み出した、その背景は一様ではない。しかし、一つの見方に固執し、他者との対話を拒絶するスタイルが、健全な社会の創出に寄与するとはいえない。自らの視野が開かれていくこと。ここに仏教や宗教を学ぶ意義があるように思われる。
(龍谷大准教授)