原文は柳井滋他校注『新日本古典文学大系19』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している。

 中将の光源氏は、青海波という曲を舞いなさった。二人舞のお相手は、左大臣の嫡男、頭中将で、容姿も態度物腰も、普通の人とは異なって優れているのだが、光源氏と立ち並ぶと、やはり桜花の傍らに茂る深山木といったところだ。暮れ方の陽光があかあかとさすと、音楽はより高らかに響き、演舞たけなわの頃合い、そろって舞う光源氏の足踏みと面持ちは、この世のものとも思えぬ様子である。楽が静まり、漢詩を吟ずる詠の声など、まるで仏陀の国の迦陵頻伽(かれうびんが)という鳥の鳴き声かと聞きなすほどのすばらしさだ。

 風情あり、感慨深い舞ぶりに、帝は感涙を拭いなさり、公卿たちや親王たちもみんなお泣きになる。詠が終わり、袖をお直しなさると、それを待ち取って奏でられる楽の華やかな盛大さに、源氏はお顔の色がよりいっそう優って映え、いつもよりも光る、とお見えになる。

 光源氏の兄春宮の母の弘徽殿の女御は、このように光源氏が素晴らしい様子であることさえ嫉妬して穏やかでなく、「昔の言い伝えのように、神様などが空の上から愛(め)でてさらってしまいそうなお姿ね。なんとまあ気味の悪いこと」とおっしゃるのを、若い女房などは、ひどいことをおっしゃる、と聞きとがめるのだった。藤壺は、「もし身の程知らずの畏れ多い心がなければ、いっそう素晴らしくお見えでしょうに」とお考えになるにつけても、まるで夢のような気持ちがなさるのであった。

「源氏物語図屏風」右隻、部分(東京富士美術館蔵) 朱雀院行幸の本番を描く。木高い紅葉の陰に、40人もの垣{かい}代{しろ}(楽人の人垣)が並ぶおそろしいほど壮麗な青海波の舞。2人とも紅葉をかざしていたが、光源氏の方は、その美しさに見合うよう、左大将が御前の菊を折って差し替えている ※25日~9月29日、京都文化博物館で開催の「百花繚乱 ニッポン×ビジュツ術」展で見られます

あでやかなれど不安な未来

 

 桐壺帝は、上皇御所である朱雀院に行幸し、一院(いちのいん)の算賀を行う。延喜十六(九一六)年三月七日、父宇多院の数え五十の祝いに、醍醐天皇が朱雀院に行幸したという史実がある。桐壺には醍醐、一院には宇多を投影する、というのが古来の説だ。だが紅葉賀巻は「朱雀院(すざくゐん)の行幸(ぎやうがう)は神無月(かんなづき)の十日あまりなり」と開巻し、初冬に設定を変えて、紅葉の錦(にしき)の中にそれを置く。若紫巻や末摘花巻にも行幸の舞楽の準備を記し、紅葉賀は、『源氏物語』の中で「舞楽に最も力をこめて描」く巻となった(山田孝雄『源氏物語の音楽』)。

 青海波の舞人(まいびと)は、桐壺帝次男の光源氏と、その正妻葵の上の兄弟である頭中将。二人は好敵手(ライバル)だった。豪華な競演が見られないのは口惜しい、と後宮の女性たちは嘆く。藤壺が観ないのは残念、と帝も考え、清涼殿東庭での試楽(リハーサル)を命じた。

 藤壺は身ごもっていた。帝の子ではない。若紫巻の一夜で密(ひそ)かに宿した、光源氏の子供である。なぜ父親がわかったか。密通のあと、光源氏は、「おどろおどろしうさま異(こと)なる夢を見」た。夢解きを呼んで夢合わせをすると、「およびなうおぼしもかけぬ筋(すぢ)のことを合はせ」、「その中に違(たが)ひめありて、つつしませ給ふべきことなむ侍ると言ふ」。想像もつかない方面の大事のさとしだが、その運勢の途中につまずきがあって謹慎すべきことが起きるとの夢判断だ。やっかいなことだと察した光源氏は、いや人の夢の話さ、とごまかして他言を封じ、はて「いかなることならむとおぼしわたるに」、藤壺懐妊の噂(うわさ)を聞き、「もし、さるやうもや」と合点した。光源氏が数え十八歳、五つ上の藤壺が二十三の年の六月のことである。四カ月後の十月がこの場面。ちなみに葵の上は、藤壺の一つ下である。

 この日は、そのまま藤壺を清涼殿の夜の御殿(おとど)に留めて御寝(ぎよしん)となった帝は、どうだい、あの子の舞は。今日は青海波に尽きるね、と語る。何も知らない帝にとっては、光源氏も藤壺も、等しく愛する「思ひどち」(桐壺巻)。自分と同じように、二人も愛し合ってほしい。帝はそんな風に、全く別の視点でこの不穏な三角関係を捉え、無邪気に藤壺に接する。藤壺は、頭中将もすてきでしたわ、などと応え、ぞっとする状況をはぐらかすばかり。

 翌朝、光源氏から文(ふみ)が来た。彼は、ひどく取り乱した心持ちのままに(「世に知らぬ乱りごごちながら」)と前置きして、「もの思ふにたち舞ふべくもあらぬ身の袖うち振りし心知りきや」と和歌を送る。古代より、袖を振るのは求愛の行為だ。青海波には「男波(をなみ)」と「女波(めなみ)」を立てるように袖を振って翻す仕草(しぐさ)があった(『教訓抄』)。あれは秘めた愛の告白だったというのか。帝が横にいるのに、なんと大胆不敵なこと…。空恐ろしい若さの熱情を前にして、藤壺は「おほけなき心」と独り言(ご)つ。「文遊回廊」第15回で触れたように、これは『源氏物語』のキーワードだ。光源氏の不遜な想(おも)いをいうのか。あるいは二人の愛情に揺れる藤壺自身の葛藤か。諸説議論あるが、前者の解釈が妥当だろう(山本利達)。

 藤壺は「唐人(からひと)の袖振ることは遠(とほ)けれど立ちゐにつけてあはれとは見き」と返歌した。なぜ光源氏が「唐人」か。私は背景に、白居易の新楽府(しんがふ)『胡旋女(こせんじよ)』の世界があると思う。玄宗皇帝治世の末年、安禄山と楊貴妃の二人は、宮の内外で胡(えびす)の旋舞(せんぶ)を袖を揺らして巧みに舞い、玄宗の眼と心を惑わし、安史の乱の転覆を招いた。後世の天子は、その轍(てつ)を踏まぬようにと白居易の『胡旋女』は諷喩(ふうゆ)する。楊貴妃も安禄山も玄宗の深い寵(ちょう)愛を浴びた。桐壺・藤壺・源氏の関係とそっくりだ。「長恨歌」の純愛をあざ笑うかのように、安禄山と楊貴妃の密通説は広まる。悪女としての楊貴妃像を歌うのも、白居易得意のネタだった。

 安禄山は、ソグド人の父を持つ。青海波は、輪台(りんだい)と一対の組曲で、詠はいずれも小野篁の作詩である。輪台はウルムチ近くの都市の名。その詠には「蒲桃(ぶだう)美酒」(ワイン)も玄宗(「三郎」)も出てくる(後藤昭雄)。篁は遣唐副使に選ばれながら入唐を果たせず、最後は大使と揉(も)めて渡航拒否。隠岐の島に流され『百人一首』の歌を詠む。青海波は、危うい異国情緒満載の唐楽だ。紅葉賀巻の、あでやかで、しかし不安な未来の予感と共鳴する。

朱雀院跡(京都市中京区)

 源氏物語に登場する後院(上皇の御所)の朱雀院は、実在した離宮でもある。平安時代初期に造営され、同後期まで使われた。

歩道から見えるNISSHA敷地内の「朱雀院跡」石碑(京都市中京区壬生花井町)
 
朱雀院跡

 その規模は壮大で、平安京のメインストリート朱雀大路西側に接し、三条から四条に至る敷地の広さは8町(1町は120メートル四方)にも及んだ。大内裏(平安宮)に次ぐほどの敷地に立ち並ぶ内裏(天皇の御所)に準じた寝殿造りの建物や池の広がる庭園は壮麗で、紅葉や桜、月と季節ごとの風流を満喫できたことだろう。

 朱雀院の記憶は、四条通中新道近くの印刷会社「NISSHA」敷地内にある「朱雀院跡」の石碑だけ。幅84メートルもの朱雀大路も今や幻、朱雀院をしのぶよすがは何もない。ただ、明治時代、跡地近くに開通した千本三条と四条大宮を結ぶ京都では珍しい斜めの道路は「後院通」と言い、ゆかりの名を今にとどめている。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)