原文は吉岡曠校注『新日本古典文学大系24』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している
 

  東国からの道中、多くの国々を通り過ぎてきたが、駿河の国の清美が関と、近江の逢坂の関ほど素晴らしいところはなかった。たいそう暗くなってから、三条の宮の西隣にある家に着いた。

 広々として大きいが荒れた住まいで、通り過ぎてきた山々にも負けないほど、たいそう恐ろしげな深山木のような大木が生い茂り、都の内とも見えない邸宅のありさまである。

 まだ落ち着かず、ずいぶんと物騒がしい状況だけれども、はやくはやくと待ち望んでいたことなので、さっそく「物語を探して手に入れて、見せて、見せてよ」と母にせがむと、三条の宮に、親類にあたる人で、衛門の命婦と呼ばれて伺候していた人を尋ねて、手紙を送ってくれた。すると先方でも、久方ぶりの音信を珍しがって喜び、宮様がお持ちの物語のお下がりだと、格別に装幀(そうてい)した立派な本を何冊か、硯(すずり)の蓋(ふた)に入れて届けてくれたのである。

 嬉(うれ)しいことこの上なく、夜も昼も、この物語を見ることから始めて、さらに別の物語を読みたいのだけれど、縁もゆかりも無く、住み慣れない都の隅っこにいる私に、物語を探し求めて見せてくれる人など、いったい誰がいるというのか。

『ねさめ物語』(国立国会図書館蔵、巻頭)  大和文華館蔵の国宝『寝覚物語絵巻』の模本で、『夜の寝覚』の末尾(現在は欠失)の一部かという。花びらは桜。国宝の原本では満開である。東京国立博物館蔵の模本は、花びら以外の枝を淡くピンクに描き出す。季節は異なるが、孝標女が不安な心持ちでたどり着いた三条の大邸宅は、たとえばこんなイメージか

生きる指針だった物語

 

  『更級日記』の伝来には、藤原定家の存在が大きい。『更級日記』に言及する最古の記録は、定家の日記『明月記』の寛喜二(一二三〇)年六月十七日条である。最重要写本の「御物本更級日記」も定家筆だ。同書は江戸時代初期に御物となり、明治にいったん東京へと移動したが、現在は京都御所内の東山御文庫(ひがしやまおぶんこ)に所蔵される。

 御物本には定家の奥書があり、作者について大事な情報を摘記する。それによると『更級日記』は「ひたちのかみすがはらのたかすゑのむすめの日記也」。父菅原孝標は上総介(かずさのすけ)(一〇一七~二〇)、常陸介(一〇三二~三六)を歴任。先祖に菅原道真がいる。京都在住の「母」は藤原「倫寧朝臣女(ともやすのあそんのむすめ)」。作者の孝標女(むすめ)(一〇〇八~?)は「傅(ふ)のとののははうへのめひ也」。傅殿(ふどの)藤原道綱の母は『蜻蛉日記』の作者。母方の伯母にあたる。

 『更級日記』は、五十代の作者による回想記(メモワール)で、「あづま路(ぢ)の道(みち)のはてよりも、なほ奥(おく)つかたに生(お)ひ出(い)でたる人」と始まる。紀友則(きのとものり)(「ひさかたの光のどけき春の日に…」の作者)の和歌の一節「あづま路の道のはてなる常陸…」を踏まえ、常陸よりまだ奥の、上総国育ちだと表明する。父の上総介赴任に伴った故だが、方向感覚をゆがめてまで常陸を持ち出すのは、再婚した母と常陸へ下った『源氏物語』の浮舟を意識した表現だろう。

 彼女にとって物語は、生きる指針であった。東国の幼き日「世の中に」ある「物語といふ物」を「いかで見ばやとおもひ」、姉や継母(ままはは)(上総に同行。帰京後離別)から「その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、ところどころ語るをきく」。だが、うろ覚えで物足りない。そこで「等身の薬師仏(ほとけ)をつくりて」、「京にとくあげ給ひて、物語のおほく候(さうら)ふなるを、あるかぎり見せ給へ」とひたすら祈った。そして「十三になる年」父の任が果て、京に「のぼらむとて、九月三日に門出して」、三ケ月後「師走の二日京に入(い)る」。

 東隣の三条の宮は、定家の勘物(かんもつ)によると脩子(しゆうし)内親王(一条天皇第一皇女、母は定子)の居所。竹(たけ)三条邸だとする説もあるが定まらない。向かいには在原業平邸跡(鴨長明『無名抄』)がある。

 定家奥書は「よはのねざめ、みつのはままつ、みづからくゆる、あさくらなどは、この日記の人のつくられたるとぞ」と閉じる。彼女は物語作家となった。『みづからくゆる』と『あさくら』は散佚(さんいつ)したが、『よはのねざめ』は『夜の寝覚』『寝覚物語』などとも呼ばれる名作古典だ。ただし完本は伝わらず、中世の改作本などで補いながら読解する。

 『みつのはままつ』は『浜松中納言物語』である。この物語の伝本を発掘し、巻頭の欠損を推定して作品研究の基盤を築いたのは、学習院の松尾聰(さとし)(一九〇七~九七)だ。三島由紀夫(一九二五~七〇)は、松尾が注釈を付けた日本古典文学大系(一九六四年刊)を愛読し、最後の長編『豊饒(ほうじょう)の海』(一九六五~)を発想した(三島「豊饒の海について」)。三島によれば『浜松中納言物語』は「唐に転生した亡き父を慕うて渡唐する美しい貴公子にまつはる恋物語」(「「豊饒の海」について」)で、「『豊饒の海』は『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語」(『豊饒の海』第一巻『春の雪』末尾注)だという。

 三島は、古典大系の月報に「夢と人生」という文章を寄せ「松尾先生には、学校では、国文法を教はつてゐた」と告白する。学習院中等科二年から、高等科でのことだ。平岡公威(きみたけ)少年は、十六歳(一九四一)で三島由紀夫を名乗る小説『花ざかりの森』を『文藝文化』(清水文雄他主宰)に発表。松尾は同誌に「みつの浜松」他の散佚物語研究を連載していた。三島は「その一つ「朝倉の物語」から、先生の考証をたよりに、小さな自分用の「朝倉」といふ物語を組立てたりした」と月報で語る。二十歳前(一九四四)の作品だ。

 三島が読んだ松尾の「考証」は「朝倉の物語」の「はしばしに」「孝標女らしさ」が「匂ふ」と誌す。『豊饒の海』には『更級日記』の影響があるともいう(竹原崇雄)。松尾は、御物本『更級日記』の影印の復刻(一九五五)に際して、解説を担当した専門家であった。
 今年は、三島の自死から、ちょうど五十年の節目となる。

 

菅原家の邸宅跡(京都市中京区)

烏丸御池辺りには、平安時代には菅原孝標女の住む屋敷などがあったという(京都市中京区)
菅原家の邸宅跡地図

 東国から京に着いた菅原孝標女の家には、深山で見るような巨木がうっそうと茂る広大な庭があり、長らく不在で荒れてはいてもとても立派な屋敷だった。東隣は内親王の住まいで、南には以前、在原業平邸もあった。周辺は120メートル四方もの敷地を持つ皇族や公卿の邸宅が並ぶ高級住宅街だったようだ。

 少女時代、孝標女はこの屋敷で「源氏」を読みふけり、その世界に浸りつつ物語作家となる自分を夢見て過ごした。そして、願い通り、いくつかの物語を世に出し、50代になり追憶のエピソードを綴った「日記」を書き上げる。

 菅原家の屋敷は、現在の烏丸通と御池通に囲まれ、間之町、東洞院、車屋町などが南北に走る北東の一角にあったとされる。今ここに、巨木の庭がある邸宅街の面影など微塵もない。千年の時を経て、新旧のビルや家屋があっけらかんと立ち並ぶばかりである。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)