認知症カフェを楽しむ女性。生き生きと暮らせる社会へ、取り組みが広がっている

認知症カフェを楽しむ女性。生き生きと暮らせる社会へ、取り組みが広がっている

 2004年10月、京都市で国際アルツハイマー病協会(ADI)の国際会議(京都会議)が開かれた。当時は「痴呆(ちほう)症」と呼ばれていた認知症の越智俊二さん(故人)=福岡市=が登壇した。「自分が自分でなくなる不安はいつもある。でも、物忘れ以外は何ともない。安心して暮らせるよう、手を貸してください」。静まりかえった会場に向けて、言葉を絞り出すように、とつとつと話し掛けた。
 越智さんの講演は「認知症の人と家族の会」(京都市上京区)の働き掛けで実現した。認知症であっても、それぞれに人格や感情があり、心の内を語ることができることを示そうとしたという。
 当時の日本は認知症を隠すことが当たり前で、本人が実名で語るのは異例だった。そしてそれは単なる告白ではなく、自らの決意と、社会が進むべき方向をアピールするものだった。

 認知症は、長年にわたって重度の外見的な症状だけが強調され、「認知症の人は何も分からない」という先入観も根強かった。1972年に故・有吉佐和子氏が発表した長編小説「恍惚(こうこつ)の人」の影響も大きい。「呆(ぼ)けた」しゅうとの心情は一切描写がなく、介護する主人公の女性から見た症状の印象だけが広まった。
 90年代になっても、当時「最先端ケア」をうたった介護施設は、夜に寝てもらうためという理由で、日中に入所者をロの字状の廊下をひたすら歩かせていた。施設でベッドに縛り付けるなどの身体拘束も、2000年の介護保険導入の直前にようやく原則禁止された。
 京都会議が一つの転機となり、周囲や社会が受ける損失の軽減ではなく、本人が望むことの実現に目が向けられ始めた。そんな社会こそ、誰もが生き生きと暮らせる社会との認識が広がった。
 会議の2カ月後、厚生労働省の検討会は、「痴呆」の呼び方は語源から「ばか」「あほう」の意味合いがあり侮辱的だとして、新たに「認知症」を採用すると発表した。検討会の報告書には、本人たちが自ら体験や気持ちを語り始めたこともつづられた。

 「私たち抜きでは何も始まらない」。京都会議でオーストラリア人女性は、認知症の人のことを決めるときには本人が主役になろうと呼び掛けた。会議から15年余、各地で「私たちが決める」取り組みが始まっている。
 宇治市の伊藤俊彦さん(76)は同市の会合で、認知症になっても暮らしやすい社会づくりに向け、本人への就労支援や子どもたちへの教育の必要性を訴えた。人手不足に悩む茶園の摘み手として働いたり、小学校の出前授業の講師になったりと実践が広がった。
 伊藤さんは強調する。「認知症の人が集まるだけで力になるわけではない。それぞれが持っている力を出し、意志を持って訴えるからこそ社会に響く」

 京都会議で越智さんはたった一人で演壇に立ったが、多くの人たちが勇気付けられ、自らの言葉で気持ちを語り、行動を始めた。
 しかし、いまだに「何も分からなくなる。認知症だけにはなりたくない」との考えが主流ではないだろうか。
 この15年余は何だったのか。私たちは認知症の人たちや家族らの声を聞いていただろうか。その取り組みを見ていただろうか。いま問われているのは、私たちだ。