野生に近い環境で生活できるようにに工夫された京大熊本サンクチュアリ。左上は、京大霊長類研究所で暮らすアイと松沢教授=コラージュ

野生に近い環境で生活できるようにに工夫された京大熊本サンクチュアリ。左上は、京大霊長類研究所で暮らすアイと松沢教授=コラージュ

 急峻(きゅうしゅん)な山道を走らせてきた車を止めドアを開けると、周囲から「キーキー」という声が聞こえてきた。熊本県宇城市の京都大熊本サンクチュアリ。55頭のチンパンジーと6頭のボノボが、約4万平方メートルの施設で暮らす。チンパンジーの多くは過去に、人間に近いという理由から肝炎ウイルスの感染など医学実験に使われた。薬が開発され研究の必要性が低下した後の2011年、施設は、製薬会社から霊長類保護に力を入れる京大へ寄付された。

 「今は、彼らが穏やかに暮らせる環境をつくろうと努めています」。作業着姿で迎えてくれた所長の平田聡教授が説明する。

 ■野生目指す飼育環境

 サンクチュアリでは、野生に近い形で暮らせるように工夫している。限られたスペースで、一定の距離を移動できるようにするため、3棟ある飼育施設の間には約150メートルの「回廊」がある。このほか群れの数やメンバーを定期的に変えるなど、アフリカの暮らしに近い生活を模索する。

 チンパンジーにも研究に「協力」してもらうが、無理強いはしない。ビデオ映像を見る実験などでは、彼らが乗り気になるまで待つこともしばしばある。

 とはいえ、サンクチュアリが自然とほど遠い環境なのは事実。多くの個体はふんを食べる異常行動を見せる。5分ほど体を揺すり続けるケースもある。副所長の森村成樹准教授は「ここの生活スペースは野生の1万分の1。必ずしもこのような状態でいいとは思わない」と漏らす。野生に近い暮らしを再現するため、模索は続く。

 類人猿の感染実験に反対し、サンクチュアリの設置に大きく関わったのは、チンパンジーのアイとともに40年以上研究を続けてきた松沢哲郎教授だ。

 ■学問が開く“対等”な社会

 「チンパンジーなど動物には、私たちと同じ価値がある。動物実験は、必要最小限にとどめるべき」。松沢教授は考える。

 こうした考えの根本には、アイをはじめとするチンパンジーとの研究がある。松沢教授は、コンマ数秒という超短期間だけ見た映像を記憶する能力は、人間よりチンパンジーが優れていることを突き止めた。「人間を人間たらしめる『知性』において、チンパンジーが勝る部分のあることを示した」。最も重視する成果だ。

 人間の心をより深く知るため、チンパンジーの研究を始めた松沢教授。しかしアイたちと研究を重ねるにつれ、人間とは異なるチンパンジーの心があると感じるようになったという。類人猿は人間の「ミニチュア」ではないのだ。

 アイは約40年間、愛知県犬山市の京大霊長類研究所で暮らしている。自然と異なる環境だが、松沢教授は「チンパンジーを丸ごと知るには、野生だけでなく飼育下での研究は不可欠」と強調する。彼らの「心」の研究を通してその大切さが理解されることで、アフリカの環境を保護する動きにつながるという。

 人間と動物は互いに不干渉ではいられない。人間は動物の肉を食べるように進化したし、チンパンジーは、焼き畑などで人間の手が加わった森を好む。「すべての生き物はつながっています」。松沢教授は語る。人間と動物は、異なるけれども命あるものとして対等な存在と考える社会の実現を目指している。

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 日本の霊長類学は70年の歴史を刻む中、比較認知科学やゲノム科学の知見も得て、人間とサルは同じ「同胞」であることを示す多彩な成果を上げた。現在は専門分化が進み、熱帯雨林のように複雑な様相を呈している。人類の祖先は、森からサバンナに出て、新たな世界を獲得した。専門分化の進む霊長類学の森の先には、どんな世界が待っているのだろうか。