代田博士像の前で思いをはせる京滋ヤクルト販売の田中社長(京都市南区・京滋ヤクルト販売本社)

代田博士像の前で思いをはせる京滋ヤクルト販売の田中社長(京都市南区・京滋ヤクルト販売本社)

 いまや誰もが知る乳酸菌飲料となった「ヤクルト」。本社は東京に置くが、そのルーツが京都にあることは府民にもあまり知られていない。ヤクルトの創始者・代田(しろた)稔博士(1899~1982年)が京都帝国大医学部の教室で世界で初めて強化培養に成功した乳酸菌「シロタ株」がその原点だった。代田博士は、京都に研究所を設立し、山科で亡くなるまでを過ごし、今は黒谷の墓地に眠っている。ヤクルトと実はゆかりが深い京都の地で昨年10月28日には「ヤクルト世界大会」が開かれ、参加者が代田博士が礎を築いたヤクルトの歴史を振り返った。

■「和を大切にした」

 代田博士は長野県出身。衛生状態が悪く、命を落とす子どもが多かった時代に医師を志して1921年に京都帝国大医学部に入学した。人に役立つ菌の研究に取り組み、卒業後も医学部の微生物研究室に残った。

 恩師の清野謙次教授の指導の下、数多い菌から腸内でよい働きをする乳酸菌を選び出し、培養を繰り返した。5年にわたる研究の末、30年に乳酸菌の強化培養に成功。京都の地で誕生した乳酸菌は「シロタ株」と名付けられる。ヤクルト誕生の第一歩だった。

 代田博士はこのシロタ株でヤクルトを開発。福岡市で35年から製造販売を始めた。ハルビンの大学で教鞭(べん)をとったり、戦争による中断もあったりしたが、終戦後、本格的にヤクルトを普及させる活動に乗り出した。

 代田博士は結婚当初、上京区に住まい、亡くなるまで60年以上を主に京都で過ごした。55年にヤクルト本社が東京で設立されると代表取締役会長兼研究所長に就任。京都で母校近くの左京区吉田に「代田研究所」を開設して研究にいそしんだ。後年は山科区の自宅で過ごし、82年に「ヤクルトの父」は82歳でこの世を去る。高台寺(東山区)での社葬には2500人以上が訪れ、別れを惜しんだという。

 研究所は東京に移り、当時の名残はないが、京滋ヤクルト販売(京都市南区)のトップを務める田中照治社長は、代田博士と一緒に販売網を立ち上げた創業メンバー田中英敏氏の甥にあたる。記憶の中の代田博士を「柔和な人柄で、とにかく人の和を大切にした人だった」と振り返る。今年は京大医学部で代田博士の後輩に当たる本庶佑(ほんじょたすく)さんのノーベル賞受賞決定を誇らしく感じたといい、「代田博士のシロタ株の培養成功もノーベル賞級ではないか」と考える。

 代田博士は69年に叙勲を受けた際、京都新聞のインタビューで「腸は人間の体でいうとエンジン部分。悪ければいくら栄養のある食べ物を食べてもだめなんです。今後も予防医学に励んでいきたい」と話していた。

 代田博士は、考え方を表した「代田イズム」にこう記した。

 「病気にかかってから治療するのではなく、病気にかからないための予防が重要である」

 代田博士が京都の地で発芽させた「予防医学」の精神はヤクルトを通じて現代に見事に花を開かせた。

■京都で初開催 功績たたえる世界大会

 ヤクルトの社員や販売員の功績をたたえる「ヤクルト世界大会」が昨年10月28日、京都市左京区の国立京都国際会館で開かれた。国内外からの参加者約2700人が、表彰や記念のスピーチを通じて仕事や社会貢献への思いを新たにした。

 乳酸菌飲料「ヤクルト」の販売員である「ヤクルトレディ」と、化粧品販売員「ヤクルトビューティ」の優秀者を表彰する式典。ヤクルトゆかりの地である京都では初開催で、販売エリアである38の国と地域の人々が参列した。

 販売本数や接客術などを総合的に評価する「代田賞」をはじめ、社長賞や優秀賞など計1420人を選出。根岸孝成社長は「今後も真心と人の和でお客さまに接してほしい」とあいさつし、盾や記念品を代表者に贈った。

 大会には、同社のテレビコマーシャルなどに出演する俳優の松坂桃李さんや大泉洋さんらも登場し、会場を沸かせた。