原文は小峯和明校注『新日本古典文学大系36』(岩波書店)より転載。原文表記の一部を修正している
 

 この君が十五六歳ぐらいの頃、晩秋九月の時分に、鷹狩りにお出かけになった。南山科の渚の山のあたりを、鷹狩りをして歩き回っておられたところ、午後四時前後に、急に空がかき曇って驟雨(にわかあめ)が降り、大風が吹いて雷が鳴り稲妻が光ったので、供の者も、それぞれ走って散り散りに行き別れ、「雨宿りをしよう」と、皆(み)な足の向く方角へと逃げていった。若君は、西の山沿いに「人の家があるぞ」と見付けて、馬を走らせて行く。お供には舎人(とねり)の男が一人だけ付き従った。

 その家に行き着いて様子を御覧になると、外構に檜垣をめぐらした家で、小さい唐門(屋根が唐破風(からはふ)仕立ての門)をくぐり、馬に乗りながら中へ馳(は)せ入った。板葺(ぶ)きの母屋の端に、三間(一間は柱と柱の間)ほどの小さな廊(渡り廊下)があったので、馬を乗り入れて降りた。馬は廊の端の直ぐ側の所に引き入れて、馬飼の舎人に世話を預けた。主君はと言えば、廊の屋根で雨をしのぎ、縁側の板敷に軽く尻を乗せて座っておられた。

 そうする間も、風は吹き雨も降って、雷も鳴り稲妻も光って、恐ろしいほどの荒れ模様だが、帰宅する術(すべ)もないので、そのまま縁に腰掛けていらっしゃる。そのうちに、日もだんだんと暮れてしまった。「どうしたらよかろう」と心細く恐ろしく思われて佇(たたず)んでいらっしゃると…

『勧修寺八幡宮縁起』(国文学研究資料館蔵)「勧修寺八幡宮」の由来を語る彩色の絵巻
元禄八(1695)年八月下旬に従二位源(庭田)重条が書いたと誌す奥書がある。この絵は、文徳天皇の仁寿三(853)年九月二十一日、南山科に影向した八幡大菩薩を、新たに築いた社壇へと遷宮の儀を行う場面。同社は現在「八幡宮」として勧修寺の南に存する

嵐の夜、雨宿り先で「大人の恋」

 

 「この君」は、藤原北家冬嗣(ふゆつぐ)の孫で内舎人(うどねり)良門(よしかど)の次男、高藤(たかふじ)(八三八~九〇〇)である。人臣初めての摂政となり太政大臣にまで昇った良房(よしふさ)は、父の兄で伯父にあたる。

 父の嗜好を受け継ぎ、幼い頃から鷹狩りを好んだ高藤は、雷電霹靂する風雨に襲われ、雨宿り先を求めて、山里の瀟洒(しょうしゃ)な邸宅にたどり着く。四十過ぎの家主は、高藤の素性を聞いて驚き、中へどうぞ。濡れた衣も乾かしましょうと「高麗端(かうらいべり)ノ畳」を敷いた室内に招き入れた。藤原忠実(ただざね)(頼通曾孫(ひまご))の談話録『富家語(ふけご)』でその後を概観すると、「家主(いへあるじ)」は、くたびれ果てた高藤に「若き女童(めのわらは)して物を参らせ」、「これを食(じき)し」て人心地が付いた高藤は、「童女の顔のよかりければ、寝給ひにけり」という。

 『今昔』によると、少女は十三四の年頃で、鄙(ひな)なる家主の子とは思えぬほど「極メテ美麗」。恥じらいがちで、馴れない給仕の手際も可愛い。たらふく食べ、酒も飲んだ高藤は、夜更けの床には就いたものの、あの娘が心に残って眠れない。「独リ寝タルガ怖シキニ」「此(ここ)ニ来タリテ有レ」と娘を呼び、「此(こち)寄レ」と「引キ寄セテ抱(いだ)キテ臥(ふ)シ給ヒヌ」。間近で観れば、より美しく愛おしい。眠れぬ秋の夜長に、二人の未来について繰り返し固く契った高藤は、形見の太刀を残して、暁に立ち去った。

 帰らぬ息子を、父良門は「終夜(よもすがら)思ヒ明シテ」待った。幼さを叱られ、無断外出は禁止、鷹狩りも止められた高藤は、ひたすらあの子が恋しい。だが馬飼の舎人は暇をとって不在で、誰もあの家の所在を知らない。いつしか四五年が過ぎ、父良門はあっけなくこの世を去った。高藤は「形モ美麗ニ、心バヘモ微妙(めでた)クアリケレバ」、伯父の良房が後見となってくれたが、彼は依然「彼(か)ノ見シ女ノ事ノミ心ニ懸リテ、恋シク思エ給ヒケレバ、妻ヲモ儲ケ不給(たまは)ザリケル程ニ、六年許ヲ経ヌ」。そしてやっと「馬飼ノ男、田舎ヨリ上リテ参リタリト聞キテ」、命じてあの家に再訪を果たす。彼女は「見シ時ヨリモ長(おとな)ビ増リテ」別人の様に美しくなっていた。ただその傍らに、綺麗な「五六歳許ナル女子」がいる。

 娘は貞淑、あなたの子ですと家主は言う。枕上にはあの太刀が置かれ、女児は自分にそっくりだ。「前世ノ契深クコソ」と詠嘆した高藤は、妻の列子(れつし)と子の胤子(いんし)を車に乗せて連れ帰り、生涯、精誠を尽くした。列子は「男子二人」を続けて「産ミ」、胤子は宇多天皇の「女御」となって「醍醐ノ天皇ヲバ産」む。高藤は内大臣に昇った。

 数えの十五六歳は、元服を終えて間もない頃で、恋愛のとば口に立つ若者である。『伊勢物語』の初段も「昔、男、初冠(うひかうぶり)して」、奈良の春日の里に「狩に往(い)にけり」と始まる。この「狩」も鷹狩りだ。在原業平を彷彿とさせる青年は、その「ふる里」の狩場で「思ほえず」「なまめいたる女はらから」に遭い、大人の恋の「いちはやきみやび」を体験する。

 業平は、十七歳で右近衛将監(うこのえしようげん)(三等官)に任官するが、高藤は出世が遅く、二十五で、ようやく右近衛将監となった。それ故か、鎌倉時代の『世継(よつぎ)物語』では、高藤の年齢を「二十ばかり」と伝える。高藤伝説総体が「虚構」の枠組みで粉飾されているとの指摘もある(池上洵一)。『うつほ物語』の俊蔭の娘(「文遊回廊」第14回)によく似た設定があり、散佚『交野(かたの)少将物語』や『源氏物語』の明石一族の造形との関連も注目される。

 父の家主は「其ノ郡ノ大領宮道(みやぢ)ノ弥益(いやます)」といい、四十過ぎの妻がいた。この「弥益ガ家ヲバ寺ニ成シテ、今ノ勧修寺」となる。弥益の妻は「向(むか)ヒノ東ノ山」のあたりに「堂ヲ起(た)」て、「大宅(おほやけ)寺ト云フ」。曾孫の醍醐天皇は「弥益ガ家ノ当(あ)タリヲバ、哀レニ睦(むつま)シク思(おぼ)シ食(め)シケルニヤ」、陵墓の後山科陵(のちのやましなのみささぎ)も「其ノ家ノ当タリニ近シ」。天皇が深く帰依した醍醐寺も遠からず、すぐ側には隨心院もある。真言密教の聖地である。

 ただし「渚の山」は『世継物語』では「ないしやの岡」とするが未詳である。山科には似た地名の椥辻(なぎつじ)があり(日本古典集成)、「南木辻」「なきの辻」とも表記した。南西に勧修寺、東には大宅があるが、あいにく地勢は平坦だ。

 

勧修寺(京都市山科区)

春は桜が咲き誇る勧修寺の参道と山門(京都市山科区)
勧修寺地図

 高藤と列子が出会った屋敷は、当時、山科も含む宇治郡一帯を本拠とした豪族宮道氏の邸宅だとされる。二人の出会いで生まれたのが後、醍醐天皇の生母となる胤子である。勧修寺は醍醐天皇の勅願寺で、早世した母胤子追善のため宮道家邸跡に造営されたという。つまり、祖父母のロマンスが芽生えた場所を供養の寺にしたということになる。

 春は桜、秋は紅葉で有名な勧修寺は、古池「氷室の池」を中心とした池泉庭園が見どころ。桜、紅葉以外にも、水鳥やハスの花など四季折々の変化で目を楽しませる。庭の借景となる南側の山は、その形から亀甲山という同寺の山号になったと伝わり、寺より古い八幡宮が鎮座。さらに、同寺境内南に宮道神社があり、大岩街道沿いの丘の上には高藤の墓跡、その上り口に高藤の二男で歌人の定方の墓…と、勧修寺周辺は、この物語にまつわる遺跡が数多く見られる。

■あらき・ひろし

 1959年生まれ。専門は古代・中世文学。古典を通じた大衆文化研究も進める。著書に「徒然草への途」ほか。

■文遊回廊

 史跡などの歴史を物語でつなぎ、散策路を策定します(主催・京都文化交流コンベンションビューロー、古典の日推進委員会、京都新聞)