論文を寄稿した冊子を手にする車田秀樹さん

論文を寄稿した冊子を手にする車田秀樹さん

「乙訓」という地名の最も古い由来は、水の流れ下る場所を意味する「落国(おちくに)」ではないか―。そんな新説を、京都府長岡京市在住で中学の社会科教員だった男性がまとめた。従来説では「堕国(おちくに)」や「弟国(おとくに)」が有力だったが、乙訓のルーツを探る研究に一石を投じそうだ。

 乙訓とは、京都府長岡京市や向日市などを含むエリアで、明治時代当初の乙訓郡は現在の京都市洛西方面などの一部も含んでいた。

 京都市右京区の宕陰中校長を最後に定年退職した車田秀樹さん(68)。生まれ育った乙訓地域の歴史研究を続けており、乙訓の由来を考察する論文を「媛はどこで堕(お)ちたか」と題する論文にし、5月発行の「京都市中学校退職校長会誌」に寄稿した。

 車田さんは、まず堕国説に注目した。同説は、古事記や日本書紀に、垂仁天皇のきさき候補となった丹波国の女性が容姿を理由に地元へ送り返される途中、将来を悲観して「高く険しい淵に落ちて死んだ。そこを堕国と名付け、今は弟国と言う」との記述があることに由来している。そこで女性の身投げの伝承となった現場を推定したところ、奈良と丹波を結ぶ古山陰道が通っていたと考えられる向日丘陵の南西部に位置し、小畑川が西側を流れる場所に行き着いた。

 現地は、現在はスーパーマツモトやコーナンが立地する付近。継体天皇が518年に遷都した、弟国宮のあった候補地でもある長尾京市井ノ内地区や、弟国と墨書された土器が見つかった上里遺跡からも近い。

 論文は、さらに考察を進める。小畑川の下流域は大きく蛇行して氾濫を繰り返したことが発掘調査で判明していることや、旧来の乙訓地域に含まれる京都市伏見区の淀水垂町は、流れ着いた川の水が落ち合う場所として「水おち」と呼ばれていたという史実なども考え合わせた結果、この地は、水の流れ下る場所として「落国(おちくに)」と呼ばれていたのではないかと提示する。

 堕国説については、「おちくに」の呼称が生まれた後に創作された伝承だととらえる。また、「葛野」と呼ばれた大きな地域から切り離され、弟分的な地域となったためだとする弟国説については「弟は当て字に過ぎず、意味にこだわった見方だ」と疑問視する。

 「おとくに」は「落国」がルーツで、「おち」の読みが「おと」に変化した後、「弟」という当て字が使われて「弟国」となる。713年には「郡郷名は二字で好字を付けよ」との好字令によって「乙訓」との字が使われるようになった、というのが論文の見解だ。

 車田さんは「『おちくに』の『おち』を、水の流れ下る場所としてとらえた説はこれまでになかった。暴れ川としての小畑川に、かつての人たちは畏怖の念を抱いていたのではないか」と話す。